プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える 単行本 – 2018/10/5
山下 良道
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,980","priceAmount":1980.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,980","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"YEi45yh62j4FU04AjMpckKhg5%2FLnlcym94JqJI4eH1BxQFcOej7fPoqXtDWsZeQq4Ly3UA%2FHim4%2BqU31ueWe4e0lGRk5VielQ8FaiRUIUcJ8wfyUulWIvqSvJ2RJmF%2BXB2p5%2Bp843gw%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}]}
購入オプションとあわせ買い
本当に無心になることは、決してむずかしいことではなかった!
まったく新しい、マインドフルネスと禅のハイブリッド瞑想法!
マインドフルネスと禅、どちらも修行して熟知する唯一の日本人仏教僧が、わが国の精神文化に訪れた800年ぶりのバージョンアップをやさしく解説!
ふたつはなぜ今、世界で初めて、ここ日本で融合しようとしているのか?
<目次>
第一章 マインドフルネスと出合う
マインドフルネスとは
マインドフルネスを日本語で言うと
マインドフルネスと私
第二章 マインドフルネスが日本に来た意味
なぜそれを黒船というか
仏教とはサティのこと
マインドフルネスを理解したい!
「私」の構造
脳内から出る
もうひとつの場所という大前提
第三章 道元とマインドフルネス
禅とは
道元はマインドフルネスを知っていたか
『普勧坐禅儀』の「非思量」
『正法眼蔵八大人覚』の「不忘念」
観音導利の寺名に込めた意味
第四章 禅とマインドフルネス
只管打坐とヴィパッサナー
涅槃を観る者
ふたつの地図を合わせる
「マインドフルネス×禅」の必要性
第五章 慈悲とマインドフルネス
慈悲を祈る衝撃
誰でも青空にジャンプできる時代
「私」を置き換える
慈悲と仁王門
第六章 「マインドフルネス×禅」と生死(しょうじ)のこと
◆著者プロフィール
山下良道 やました りょうどう(スダンマチャーラ比丘)
1956年、東京生れ。鎌倉一法庵住職。東京外国語大学仏語科卒業。大学卒業後、曹洞宗僧侶となり1988年アメリカのヴァレー禅堂で布教、のち京都曹洞禅センター、渓声禅堂で坐禅指導。2001年ミャンマーで具足戒を受け比丘になる。2006年帰国後、現在は「ワンダルマ仏教僧」として鎌倉一法庵を拠点に国内外で坐禅指導を行う。
まったく新しい、マインドフルネスと禅のハイブリッド瞑想法!
マインドフルネスと禅、どちらも修行して熟知する唯一の日本人仏教僧が、わが国の精神文化に訪れた800年ぶりのバージョンアップをやさしく解説!
ふたつはなぜ今、世界で初めて、ここ日本で融合しようとしているのか?
<目次>
第一章 マインドフルネスと出合う
マインドフルネスとは
マインドフルネスを日本語で言うと
マインドフルネスと私
第二章 マインドフルネスが日本に来た意味
なぜそれを黒船というか
仏教とはサティのこと
マインドフルネスを理解したい!
「私」の構造
脳内から出る
もうひとつの場所という大前提
第三章 道元とマインドフルネス
禅とは
道元はマインドフルネスを知っていたか
『普勧坐禅儀』の「非思量」
『正法眼蔵八大人覚』の「不忘念」
観音導利の寺名に込めた意味
第四章 禅とマインドフルネス
只管打坐とヴィパッサナー
涅槃を観る者
ふたつの地図を合わせる
「マインドフルネス×禅」の必要性
第五章 慈悲とマインドフルネス
慈悲を祈る衝撃
誰でも青空にジャンプできる時代
「私」を置き換える
慈悲と仁王門
第六章 「マインドフルネス×禅」と生死(しょうじ)のこと
◆著者プロフィール
山下良道 やました りょうどう(スダンマチャーラ比丘)
1956年、東京生れ。鎌倉一法庵住職。東京外国語大学仏語科卒業。大学卒業後、曹洞宗僧侶となり1988年アメリカのヴァレー禅堂で布教、のち京都曹洞禅センター、渓声禅堂で坐禅指導。2001年ミャンマーで具足戒を受け比丘になる。2006年帰国後、現在は「ワンダルマ仏教僧」として鎌倉一法庵を拠点に国内外で坐禅指導を行う。
- 本の長さ296ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2018/10/5
- 寸法13.4 x 19.4 cm
- ISBN-104087816664
- ISBN-13978-4087816662
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える
¥1,980¥1,980
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り2点(入荷予定あり)
¥1,915¥1,915
最短で4月4日 木曜日のお届け予定です
残り1点 ご注文はお早めに
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 集英社 (2018/10/5)
- 発売日 : 2018/10/5
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 296ページ
- ISBN-10 : 4087816664
- ISBN-13 : 978-4087816662
- 寸法 : 13.4 x 19.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 82,303位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 86位死生観
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年2月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
形骸化したとも見える仏教を「生きた」ものにするための提言の書、『アップデートする仏教』の出版から五年を経て,今回の書ではより深まった読み解きと具体的な実践方法が提示される。
考察の対象とされているのは仏教における二つの大きな流れである北伝系譜の日本の「禅」と南伝仏教で実践されるマインドフルネス。著者は二つの流れの、それぞれの教団の枠組みの中での修行を経験したうえで、比較、精査し、いよいよ新たな考察に入っていく。あえて修行した母体から離れた立場で語られる言説は、著者ご自身の長い経験を通しての事実だけに力強い説得力を持つ。
修行の遍歴や、具体的な考察については他のレヴューに詳しいので、私はここで一人思索し続ける著者のオリジナルな姿勢について指摘しておきたい。
自分を守り、生活の足場を与えてくれる組織と距離をおき、一人思索することはどれほど困難な道であろうか。いかに思索する人といえども組織に依っているからにはその内部力学に従い、知らず知らずのうちに考え方、生活の術が囲い込まれるという落とし穴に嵌まる危険性があるのではないか。自分が知りたくない事は自ら情報を遮断してしまう人、思い込みに囚われている人、考える事を拒否している人、これが「バカの壁」だそうだ。
著者の発言はとらわれがなくとても自由に思える。何故か?自分の頭で考えに考え抜いた上での発言だからこそ、ではないのか。
おそらくなんらかの枠組みの中にいて、その中のことを語るのは不可能であろう。枠組みの中の世界を見るには外から観察するしかないのではないか。単にこの世の組織論なら外側からの視点は入れられるであろう。例えば社外取締役、諮問委員会などの形で。しかしこの世界全体を外から観察する視点となればどうすればよいか。そのような立ち位置について著者は誠実に語る。
人工知能や遺伝子操作の進歩によって現れるかもしれない新人類、もはや埋めようもない格差社会の到来など、ただでさえ生きにくいこの世が想像もできない次元に突入しようとしている。そもそも人間とは何なのか、「私とは何者か」と再度問いなおすことが急務である。時折、著者の発言がラディカルに思える人もあるかもしれない。もしそうであれば、宗教者であろうがなかろうが、徹底して議論しつくしていただきたい。そして、「仏教」のもつ潜在力が顕かになることを切に希望する。
考察の対象とされているのは仏教における二つの大きな流れである北伝系譜の日本の「禅」と南伝仏教で実践されるマインドフルネス。著者は二つの流れの、それぞれの教団の枠組みの中での修行を経験したうえで、比較、精査し、いよいよ新たな考察に入っていく。あえて修行した母体から離れた立場で語られる言説は、著者ご自身の長い経験を通しての事実だけに力強い説得力を持つ。
修行の遍歴や、具体的な考察については他のレヴューに詳しいので、私はここで一人思索し続ける著者のオリジナルな姿勢について指摘しておきたい。
自分を守り、生活の足場を与えてくれる組織と距離をおき、一人思索することはどれほど困難な道であろうか。いかに思索する人といえども組織に依っているからにはその内部力学に従い、知らず知らずのうちに考え方、生活の術が囲い込まれるという落とし穴に嵌まる危険性があるのではないか。自分が知りたくない事は自ら情報を遮断してしまう人、思い込みに囚われている人、考える事を拒否している人、これが「バカの壁」だそうだ。
著者の発言はとらわれがなくとても自由に思える。何故か?自分の頭で考えに考え抜いた上での発言だからこそ、ではないのか。
おそらくなんらかの枠組みの中にいて、その中のことを語るのは不可能であろう。枠組みの中の世界を見るには外から観察するしかないのではないか。単にこの世の組織論なら外側からの視点は入れられるであろう。例えば社外取締役、諮問委員会などの形で。しかしこの世界全体を外から観察する視点となればどうすればよいか。そのような立ち位置について著者は誠実に語る。
人工知能や遺伝子操作の進歩によって現れるかもしれない新人類、もはや埋めようもない格差社会の到来など、ただでさえ生きにくいこの世が想像もできない次元に突入しようとしている。そもそも人間とは何なのか、「私とは何者か」と再度問いなおすことが急務である。時折、著者の発言がラディカルに思える人もあるかもしれない。もしそうであれば、宗教者であろうがなかろうが、徹底して議論しつくしていただきたい。そして、「仏教」のもつ潜在力が顕かになることを切に希望する。
2019年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『マインドフルネス×禅』を読んでみて、何か物足りなさを感じました。「もうひとつの私」の続き、その実体の奥にある本質・実相の解明がなされていないのでは、と感じました。何が本当で、何が正しいかということは難しいのですが、人生には、何かもっと深い意味があるのではと思っています。キリスト教と仏教を中心に、私の個人的な見解を他の本からの引用を用いて、述べてみます。
イエス様の教えは、一般的に誤解されて伝えられているようです。後世の人達が、自分たちの理解できない所やキリスト教を広めるのに、都合の悪い部分を取り除いて編纂されたのが、新約聖書だと思います。イエス様の教えの大きな柱は、「神は愛であり、愛は神である」と「人はみな神の子である」です。仏陀様が言われた「人はみな仏の子である」と同じです。詳しくは、『心身の神癒』(文語訳スタイル)か『ディヴァイン ヒーリング』(新約聖書の口語訳スタイル)を見てください。この本によると、神我(真我)は、「真実の自分の魂」のことであり、人間は本質的には神と同じように無限の叡智(仏陀様が説かれた仏智と同じ)と能力を有し、神もキリストも自分も同じであり、神は他所にあるのではなく、自分の裡(うち)にあるという。
『人間釈迦 大いなる悟り』(ブッダの教え)によると、人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意思を受け継ぐ万物の霊長として産ぶ声をあげた。人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。そうして神の意思である調和をめざす神の子として、物質界に降り立った。
人間以外の動物、植物、鉱物も、こうしたプロセスを経て、大地に姿を現した。こうして、あらゆる生物物質は、実在界(意識界)と現象界(地上)の間を、輪廻することになった。
人類の目的と使命は、調和した仏国土を建設することであり、人々の魂は、その建設を通して、進化をめざすものであった。人間の意識は、神の意識に通じながら、物質界という現象界と、非物質の意識界を循環し、この意識である魂を持って、生き続ける。
人間が神の子の己を自覚し、業(カルマ)を修正し、本来の神性に戻るには、神の心に触れなければならない。神聖の我に帰るとは、苦界の自分から離れることである。神からの無限の慈悲に応えることによって、人間は神性の己を自覚する。
一切の苦しみは、中道という神の意思から離れるために起こるものである。人生の苦しみは、自らの心がつくり出したものであり、五官六根を縁とする。この苦しみから解き放たれるには、八正道という中道の心を目標にした実践行為しかない。中道の神理は、ウソのつけない己の心を信じ、八正道という生活行為を為して行くところにある。
人間の魂は、行き通しの意識であって、神理から始まり、神理にしたがって、永遠の進化を続けていくものである。肉体は、時が経てば脱ぎ捨てなければならない。肉体は、あくまでも人生行路の舟であって、魂の己自身こそ、永遠の生命体である。
『心身の神癒』(イエスの教え)の(第一話)によると、すべての被造物は、すべての働きを調和させ、神の神性を顕現せしめる愛という基本原理によって創造られた。人がこの真理に気付いた時こそ、彼の身内に完全なる神性が反映し、やがてそれは人間としての地上天国をもたらすであろう。
智慧なき者は1つの状態より他の状態への遷り変りの法則を解しない、その故にこそ人はみづから死と称する迷妄をみづからの心の中に造り出してしまう。
あなたたちの感官に支配された心は、本来神性なるものを、これまでとかく曇らし或いは蔽うてきたものである。
あなたたちは時間も空間もない状態に到達し、自分の魂の中に宿り給うあなたたちの主なる神の完全さの中に入ることができる。
父なる神が個別化して各人一人々々となったのであり、(かくして一人々々が)久遠なる神の子すなわち神我の顕現として誕生し、地上に生を得ることになったのである。神我は肉の中に顕現した神の霊であり、昇天とはこの実在を真に認識すること、久遠の神我を真に把握することである。
神には善とか悪とかいうものはなく、神は今の今完全無欠に現れてい給う。神の愛があなたたちを通して現われるに任せよ。そうすれば、真実の表現を妨げるものは本来の無となって解消し去るであろう。恐れと悪とが造り出されているのは実は自分の心の中である。それは遍在している神の中には存在しないし、存在しえない。
闇は光の不在にすぎない。あなたたちの胸が愛によって満ちておれば魂の中には闇はありえない。真理は世の光を探求するものであり、愛こそが第一原因である。
神のみが実存し(すべては)神の自己実現であり、神によって創造された存在であるあなたたちは決して神から引き離されうるものではない。
愛は身体を貫流する生命エネルギーである。愛はすべての生ける魂の中にあって守護の働きをなすものである。
あなたたちにとって最も重大なことは、神おんみずからの真の現れである神の愛を受けかつ与える能力である。
神は積極的、創造的、かつ至純なる想念によって宇宙を創造り給うた。宇宙は神の本性たる『愛』の表現である。この神性エネルギー(愛)こそは、われわれを御自身に似せて創造り給うた神にわれわれを固く結びつける久遠の環である。こうして人類は愛の表現の器となる。
人はみな生れ乍らにして神の息子であり娘である。人はみな理解(さとり)と愛によって神の息子、娘となる。
理解(さとり)によって真理、すなわちわれらがみな神の息子、娘である真理が啓示される。
『光の書』(イエスからの伝言)よると、神の行為は光と共に始まります。高次元の光で始まります。天の光です。チャネルでつながる天の光です。
人は、輪廻転生を通じて、どうすれば、もがくことをやめて、人生の流れに身を任せることが出来るかを学びます。地上に転生する前、まだここ天にいる時、あなたは使命を与えられます。すべての魂は使命を持って地上にやって来ます。人生の目的は、自分の精神の活動範囲を見極める経験をすることです。
人は誰でも拒絶のカルマを持っています。拒絶は、輪廻の環の中でも最も一般的なカルマです。この世に生を受けている魂はすべて、このカルマを経験するために生まれて来ています。経験するだけではなく、できれば克服、解消するためにこの世にやって来ているのです。
あなたの本質とは、あなたの肉体に閉じ込められた光の存在です。本質とは最も純粋な自分であり、本来の自分です。自分の本質がいかに壮大であるか、そしてこのエネルギーがいかに神聖で唯一無二のものであるかを理解した時に、自分が光の存在であることを、何をするために地上にやって来たのかもわかるでしょう。
学ぼうとしていることが自分のエネルギーと調和している時にのみ、人はそれを学ぶことが出来ます。自分より高次のエネルギーを帯びたものを学ぶには、心を開き、自分のエネルギーをそのレベルまで高めなければなりません。人は、自分のエネルギーで吸収できるものしか理解できないからです。心を開け放ち、波動をより高次のものへと高めてください。
人はみな神です。なぜ、その事実から目をそむけようとするのですか。自分の中にある最高のものを引き出してください。あなたには本質があります。光があります。魂があります。それらに見合った波動を発すれば、あなたはいっそう明るい光を放ちます。
批判せず、決め付けず、天からの答え以外には何一つほしいと思わず、頭の中を無の状態に保つことができれば、あなたの質問に対する答えが現れ始めます。
『キリストのヨーガ』(ヒマラヤ聖者の教え)の「はしがき」からの一部抜粋より。
あらゆる欲望や探求は自我の延長にすぎず、真実なるものではない。
われわれが自分を喜ばせるものだけ、また自分が信じるていることや観念を満足させ、あるいは確認させるものだけに耳を傾けるならば、正覚はありえない。あらゆることに偏見を抱かずに、また自分の無知、自分の堅信、自分なりの知識、自分特有の個性、自分の見解を守るために防壁を築き上げることをせずに耳を傾けること、そして事柄の真理を見出す意図をもって耳を傾けることは一個の芸術である。
われわれを根本的に解脱させるのは真理のみであって、推論や空論ではなく、真実ならざるものを知覚することである。心を造り成しているものは真理ではない。真理は心を越えたものである。ゆえに、真理が啓示されるには、心は捏造をやめなければならない。
単なる観念は、神我の創造性に対する障害である。観念は、あらゆる洗脳するものによって取り囲まれた自我の投影にすぎない。
心が刺激やいわゆる霊感により、あるいは祈りや真言(マントラ)によって逃避しようとする限り、解脱に必須な心自身の成り行きを見極めることはできないのである。
自我を知ること(自我徹見)こそが唯一の道である。
真我実現に関して分かり易いのは、『覚醒の炎』で、もっと詳しく知りたい人は、『不滅の意識』をお勧めします。
『覚醒の炎』の表紙帯には、その強烈な臨在は、世界中の数知れない真理の探究者たちを真我に目覚めさせた。「考えているのは誰か?」と尋ねることは思考過程を止め、あなたの本来の自己、自然な状態、空なる純粋な源に戻る。これがあなたの本性なのだ、と書かれている。
『覚醒の炎』(ババジの教え)によると、「空」とは単に想念と欲望の不在にすぎない。
どのようにして心は分割されるのだろうか?想念を起こすことによってだ。一つの想いも起こさないとき、心自体が存在しない。想念が分離を生み出すのだ。分離がなく、心が分割されない状態、それがバクティ(愛)だ。それが至高の帰依というものだ。真我、不滅なるものに帰依心を抱き、それと一つになることが至高の帰依だ。
真我には二つの表現方法がある。愛(バクティ)と知識(ジュニャーナ)だ。それらは真我を発見するための二つの道とも言える。真我探求において、あなたの想念の源を探す。あなたは源に戻り、源に溶け入り、源にとどまる。これがヴィチャーラだ。この探求は「知識」、ジュニャーナと呼ばれる。帰依とはあなたの源を愛することだ。全身全霊で源に最高の愛を捧げるとき、あなたはその源に導かれてゆく。真の知識を得るためには、この源を一心不乱に愛さなければならない。至高の愛を得たとき、あなたは至高の知識を得るのだ。
自分が誰なのかを見出そうとする決意を抱いて努力する選択、それが真我探求の努力だ。それは「私は自分が誰なのかを見出す」という決断から湧き起こる。もう一つの方法は恩寵の道、明け渡しだ。「すべてはあなたの恩寵でしかありません。あなたの手の内にすべてをゆだねます」。この道、この態度があなたの面倒を見る力を誘い起こし、あなたを真我へと導くのだ。「私は自分自身で自由を勝ち取る」という決意も、「すべてを神聖なる真我の力に明け渡そう」という決意も、恩寵の現れに他ならないからだ。
ひとたびすべてはマーヤー(幻想)の罠だと知れば、それらが自分自身の想像の中にしか存在しないこともわかるだろう。とらわれていると信じていた罠から、あなたはいつでも自由に立ち去ることができる。仏陀は罠から立ち去って自由を見出した。すべてから立ち去るだけの勇気を彼はもっていたからだ。
ヨーギはさまざまな修練を通して目的地に到達し、至福の体験を得る。そしてその状態から出たときに、非常に自分に満足する。なぜならば、彼らは欲望の対象を獲得したからだ。彼らを幸せにさせたのは突然の欲望の不在である。欲望が完全に消え去ったとき、あなたはいつも幸福だ。これが解脱だ。解脱は瞑想や聖地を巡礼した結果ではない。
はじめの想念が消え失せてから次の想念が現れるまでに、そこにはギャップが、空間があるはずだ。この空間を見なさい。以前の想念は去った。それがどこへ行ったのか見なさい。その消滅を見極めなさい。そうすれば次の想念は現れないだろう。もし想念が来るなら、受け入れなさい。想念と想念の間の無想状態を見出すのだ。この無想は抑圧ではない。抑圧の方法に従えば、あなたは想念に押し殺される。想念が去り、次の想念が現れる前にギャップが存在する。それが真のあなたなのだ。それは抑圧ではない。それがあなた自身の真我に帰りつくことなのだ。
解脱した人は、「私がこれをすれば、これが起こるだろう」と考えて行為することはない。行為は起こるだろう。だが、行為をしているという感覚はそこにないのだ。彼は為されたことに特別な興味を示さない。そしてそれに対する執着もない。
その最初の「私」という想念が源に帰りついて消え去れば、それとともにすべてが消え去る。そのとき、あなたは真我として在る。「私」が消え去るその場所、それが智慧だ。そこは努力も想念も起こらない場所だ。すべて静かだ。その場所を去る時、「私」という想念が起こる。
最終解脱が起こった後で、いかにカルマが過去の活動や出来事と関連しているかを理解することもある。
実際どうなのか分からない部分もあるのですが、『バーソロミュー』によると、肉体を失うと、その人の叡知は「大いなる意識」(宇宙の集合意識)の大海原の中に常に存在し、過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しています。偉大なる真理や叡知は死滅することはありません。真理や叡知そのもののなかに勢いや速度というものがあり、「大いなる創造物」(宇宙のすべての現象)のなかを動きまわっています。
人はソウル・グループと呼べるものとともに地球界に転生(何度も転生を経験)してきます。肉体を持っていない魂の役目の一つは、肉体を持って転生した魂たちが真理に目覚めるよう導いたり、愛と心の支えを与えたりすることです。ソウル・グループのエネルギーは夢に現れて人々を導いたり、神からの啓示体験のようなヴィジョンを見せてくれたりします。
魂がこの地球にやって来て、肉体を身につけたとき、人間たちは「パワー」を与えあられました。七つのチャクラと関係したエネルギーでした。人々の「存在」のなかをたえまなく動いているパワーでした。人間の本来の性質、人間存在の本質は「大いなる源」の一部であり、それから創られました。瞑想している人は、自分の体のなかを流れ動くエネルギーをはっきりと感じ、そういうエネルギーは自分の肉体を超えたところから来ていることを知ります。意識を完全に研ぎ澄ましていると、パワーを急増させ、背骨の基部にあるチャクラから頂点のチャクラまでエネルギーを駆けのぼらせて、途中のチャクラにすべて点火する能力が自分の中にあることが分かります。パワーはあなたの内部にあって、人はそれぞれパワー制御装置のようなものを持っています。
あなた方が地球界にやって来たのは、あらゆる感情を経験し、これらの感情をマスターできるようになるためです。
神は一瞬も止まらずに動き、変化し、進化し、拡大しつづけ、ひとときも同じでない、すばらしい存在です。
地球界に形を持つものとして転生してきた目的の一つは、十二のパワー因子のそれぞれが二つに分離していることを理解することです。それらを再び統合し、調和とバランスをもたらすことがあなたの役目です。あなた方人間は、これらのすべてのパワー因子の源である「大いなる源」から生まれ、多彩な光として外界に出ていくことによって、創造されたのです。神なるエネルギーの波動のスピードを落とし、肉体という形をまとうことを選んだのです。肉体に「死」が訪れる時、パワー因子はそのまま生き続けますが、人はそのことを「魂が肉体を離れた」と表現します。
この地球界に転生してきた目的の一つは、ネガティブとホジティブの両極のバランスをとるということです。あなた方は、自分の覚醒をできるだけ促すような人生を計画して、転生してきています。
自分の人生に起こることは、何らかの意味と目的がある。あなたの人生に起こることはすべて、あなた自身の書いた設計図通りにちゃんと起こっているのです。この設計図は膨大な内容を持ち、変更可能であり、直接知ることができるという性質をもっています。
これまでより高い振動数のエネルギーを受け入れることができるように、肉体の中に新しい取り入れ口を築かなくてはならないのです。人間は神秘に満ちたすばらしパワー・センターであり、鋭敏な感覚を持ったエネルギーの発火点が体のいたるところにあります。この新しいエネルギーがやって来る時には、それがこれらの発火点にぶつかり、肉体を激しく揺さぶります。
アカシックレコードは、自分の恐れや悩みの原因となった、現世または過去世での重要な出来事を思い出すという形になって現れます。表層意識はその情報を「単なる想像にすぎない」と否定します。
人が真の神なるエネルギーに触れた場合は、パワーがドットとあふれてくることでわかります。このパワーは、人の存在のなかをめぐり、気分を高揚させるものです。「神なる源」とつながっている証です。
人間は、動くエネルギーの周波数帯でできています。その周波数帯の一つが「愛」と呼ばれているものです。人間は、「大いなる光」への道は、「大いなる愛」を通してであることを生れながらに知っています。
瞑想をして、肉体がしだいに静かになっていくにつれ、オーラの中に、違うタイプのエネルギーが入ってくるようになり、その人の肉体構造に作用し始め、様々な体験をするようになります。瞑想体験の一つはイメージを見ることです。
霊性の成長やエネルギーによってもたらされた気づきの状態は、超常体験をした後で、それを振り返り、その体験のさなかにエネルギーが増し、精神が高揚し、もっと真理を追究したいという興味と意欲が出てきたと思うなら、すべては正しい方向に向かっています。
聖霊とは、想像もつかないほどの巨大なエネルギー源で、人間のエネルギー域と繋がる電磁場をもっているものです。あなた方が肉体と呼ぶ物質機構の中には、細胞の中に電磁的磁石があり、私達は聖霊のパワーと呼ぶ電磁場と連結します。その接点は、自分の内奥に意識を向け、聖霊を感じることに責任を持つということです。
あなたが聖霊の持つ任務を果たすように願えば、あなたと聖霊との共同作業が一瞬にして可能になります。このエネルギーと繋がる方法を達成した人が目覚めた者と呼ばれます。
『バーソロミュー2』によると、人間の細胞の一つひとつに、すばらしい「神の本質」の一部が宿っています。そこで、この新しいエネルギーが人間の細胞組織に触れると、その中に潜んでいたこの「神の本質」が解き放たれます。瞑想をしている時は、細胞をリラックスさせて、古くて役に立たない考えやカビの生えた感情、空回りする思考や体の緊張を捨て去ることが大切です。
神とは圧倒的にすばらしい意識の感覚です。それは「すべてよし。今までも常に完璧であったし、これからも完璧でしかない」ということを、思考を超えた次元で知り、その境地に安心して憩うということです。
エネルギーを感じようとする意志が、悟りを開くことを可能にするのです。自分の体の中に完全に入るようにしてください。そこが神の住むところです。そうした真理で体のあらゆる細胞を活性化すればするほど、意識が真理とともに開花するのが早くなり、神は自分とは別のものだという幻想から解き放たれます。
今この瞬間に「神なるもの」は存在し、自分はその存在の一部である。神とあなたが一つであるならば、あなたは自分で直接交渉し、自ら神と一体化をはかることができるはずです。
あなたの中には、すばらし「キリスト性」とか「仏性」とか「神性」といわれるものがあって、それこそが無限なのです。その無限性を知る能力が、あなたにはあり、それを知ることが自分の人生の唯一の目的だと信じない限り、無限性の扉を開くのに必要なエネルギーを集めることはできないでしょう。
『バーソロミュー3』によると、考えと呼ばれるものが、生まれたり消えたりするのを眺めている「あなた」というエネルギーの場が存在することを認識してください。その「あなた」が「真我」または「真の自己」なのです。
人間が神と呼ぶ「大いなる光」は、広大無辺で、躍動するいのちに満ち溢れ、無条件の愛と無条件の慈悲を持つエネルギー源であり、あらゆるところに存在します。
外にある「大いなる光」と内にある「大いなる光」とは、まったく同じものです。この二つに分かれている神のエネルギーの場をを一つにするのだという意図を持って、何らかの瞑想をしてみてください。内なるパワーと外なるパワーの感覚がだんだんと実体を持つものになっていきます。
考えることをしないでただ体験している時、自分という存在の神秘とパワーとすばらしさを人は体験します。神は無条件にすばらしい感覚を与えてくれます。それが神かどうかを知る方法です。
「神を求める」努力をし続けるには、自分と神との間にはどんな分離も存在しないのだと確信したい、という飽くなき願いと強い意志と固い決意が必要です。
瞑想の時に広大な拡がりを見せるのは、不変の意識の中の「私」です。「大いなる光」を見ることができるのはこの「私」であり、「大いなる光」であるのもこの「私」です。それは目撃者であり観察者です。それは決して変わらぬものであり、すべてを眺めるものです。
魂の願いとは、人をもっと開かれた場所へ移そうとする神の声なのです。魂の願いがあるからこそ、自分の限界や疑問や人生の否定的な面などを超越することができるのです。
永遠に存在するエネルギーの波には、何十憶何百憶という点状の光源が含まれています。この波が「純粋な覚醒」の中を通っているのであって、「純粋な覚醒」は波ではありません。「純粋な目覚めた意識」が波なのです。「純粋な意識」には形がありません。それは「虚空」です。この「虚空」の真ん中にはすばらしい広大無辺の波があります。それは外へ拡がっており、この形のない「虚空」に支えられています。あなたもこの波の一部です。
神とは形のないものを人格化したものです。人格化された神にもエネルギーの波にも形がありますから、両方とも「純粋な目覚めた意識」だということになります。
爆発を通して、「純粋な覚醒」は自身を知るためのさまざまな方法を生み出しましたが、それと同じように、意識のそれぞれの断片が、今では自分自身の可能性を生み出し、自分の人生や現実を創造し、「自分とは何なのか」という自己感覚を生み出す能力を持っています。
二元性の世界を越えた、もっと大きなものを創造したいと願うならば、無限のエネルギーが存在する波動に自分を合わせる必要があります。
覚者というのは、最も深いレベルで、安心して自分の本質になりきっています。人はそれを「すべてを神にゆだねた状態」と表現します。それは捨てることの最終的な究極の姿です。
小さな自己から無限の自己(狭い自己の概念から解放された意識)へと飛躍する力を身につけると、多くの可能性が開けます。肉体をリラックスさせ、肉体そのものになると、変容の過程が加速されます。深い呼吸をし、肉体を感じてください。
あなたは数兆個の光とパワーの点から成る、脈動する電磁波のパターンの一つなのです。その脈動は、無限大に異なる運動を通して、他のすべての物質や創造界のパターンと繋がっており、そこには複雑で美しい(ネットワーク)が作られています。
人が肉体を離れる時に、脈動する光のように(見える)神々しいエネルギーの渦に出会うことがあります。そしてその光から溢れ出る愛と慈悲に圧倒されます。意識が肉体を離れて光体へと移り、人はそれを自分の外に出たと感じます。「自分」と「他者」が存在します。人が実際に「死んだ」時、つまり地球の肉体に戻らないという決断がなされた時、「その人」は「自分」のエネルギーをその存在のエネルギーのパターンと混ぜ合わせて、その光の一部となります。
生きたままでも人はこれを体験できます。想像できる最高の愛と慈悲を持ち、すべてを受け入れてくれる覚醒意識の電磁場と共に自分がいるところを想像することです。細胞の中で脈動を起こすのは覚醒意識です。覚醒意識は意識的に手に入れるものです。
瞑想する時、「あなた」のエネルギー場と「神」のエネルギー場とが一緒になって、一つのパターンを持つパワーとして脈動することが可能です。古いパターンは変化してしまい、もっと広大で深い波動を持つ、新しいパターンが代わりにできています。
「大いなるいのち(神)」は、肉体のあらゆる細胞の中に感じることができる脈動のパターンです。この脈動を感じたければ、意識を呼吸に向けるだけでいいのです。脈動を起こすのは呼吸です。脈動するパターンは、その体験に神秘と感動、そして目的と完全なる喜びを与えてくれます。脈動するパワーの無限の叡智が、人生のあらゆる瞬間を流れています。この電磁的な脈動にはいのちがあります。あらゆる瞬間に、それが自分の肉体や感情体や精神体を駆け巡るのを感じるようになります。それは、体が感じることのできる最強の感覚です。
「バーソロミュー」からの瞑想法によると、体に意識を向けたら、呼吸を観察する。呼吸をしながら、「いのち」が膨らんだり縮んだりしているのに注意を向ける。そうすると、意識は肉体の奥深くへ入って行きます。そこは、「神意識」の体験ができるところです。じっと待って、起こったことを感じ取るのです。
私の場合は、純粋な気持ちで体全体を覆った後、呼吸法を使ってチャクラを活性化し、内なる生命エネルギーを体の中を循環させることによって、ブロックを外して、体全体の波動を上げて行き、変性意識状態に入ると、光(性質の異なる様々な波動・エネルギー)を受け取れます。「神意識」の一部が浮上してくると、体全体が高波動に包まれ、時空を越えることもできます。
仏教徒もキリスト教徒も、たとえイエス様や仏陀様が来られて、直接教えを説かれても、彼らはそんな話は聞いたことがない、教わったものとは違うと言って、お二人だと気づかないのではないかと危惧しています。
追加(20年3月26日)
悟りを目指している人には、次の本がお勧めです。かなりの良書です(意識がシフトするかも)。
『"それ"は在る』(ナチュラルスピリット)
『禅 空を生きる』(太陽出版)
『あなたの世界の終わり』(ナチュラルスピリット)
ただ「在る」、そして「受け取る」、そして「在る」。そこには、自我(肉体から生じる思考)の入る隙間はありません。それが手放すという意味だと思います。
イエス様の教えは、一般的に誤解されて伝えられているようです。後世の人達が、自分たちの理解できない所やキリスト教を広めるのに、都合の悪い部分を取り除いて編纂されたのが、新約聖書だと思います。イエス様の教えの大きな柱は、「神は愛であり、愛は神である」と「人はみな神の子である」です。仏陀様が言われた「人はみな仏の子である」と同じです。詳しくは、『心身の神癒』(文語訳スタイル)か『ディヴァイン ヒーリング』(新約聖書の口語訳スタイル)を見てください。この本によると、神我(真我)は、「真実の自分の魂」のことであり、人間は本質的には神と同じように無限の叡智(仏陀様が説かれた仏智と同じ)と能力を有し、神もキリストも自分も同じであり、神は他所にあるのではなく、自分の裡(うち)にあるという。
『人間釈迦 大いなる悟り』(ブッダの教え)によると、人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意思を受け継ぐ万物の霊長として産ぶ声をあげた。人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。そうして神の意思である調和をめざす神の子として、物質界に降り立った。
人間以外の動物、植物、鉱物も、こうしたプロセスを経て、大地に姿を現した。こうして、あらゆる生物物質は、実在界(意識界)と現象界(地上)の間を、輪廻することになった。
人類の目的と使命は、調和した仏国土を建設することであり、人々の魂は、その建設を通して、進化をめざすものであった。人間の意識は、神の意識に通じながら、物質界という現象界と、非物質の意識界を循環し、この意識である魂を持って、生き続ける。
人間が神の子の己を自覚し、業(カルマ)を修正し、本来の神性に戻るには、神の心に触れなければならない。神聖の我に帰るとは、苦界の自分から離れることである。神からの無限の慈悲に応えることによって、人間は神性の己を自覚する。
一切の苦しみは、中道という神の意思から離れるために起こるものである。人生の苦しみは、自らの心がつくり出したものであり、五官六根を縁とする。この苦しみから解き放たれるには、八正道という中道の心を目標にした実践行為しかない。中道の神理は、ウソのつけない己の心を信じ、八正道という生活行為を為して行くところにある。
人間の魂は、行き通しの意識であって、神理から始まり、神理にしたがって、永遠の進化を続けていくものである。肉体は、時が経てば脱ぎ捨てなければならない。肉体は、あくまでも人生行路の舟であって、魂の己自身こそ、永遠の生命体である。
『心身の神癒』(イエスの教え)の(第一話)によると、すべての被造物は、すべての働きを調和させ、神の神性を顕現せしめる愛という基本原理によって創造られた。人がこの真理に気付いた時こそ、彼の身内に完全なる神性が反映し、やがてそれは人間としての地上天国をもたらすであろう。
智慧なき者は1つの状態より他の状態への遷り変りの法則を解しない、その故にこそ人はみづから死と称する迷妄をみづからの心の中に造り出してしまう。
あなたたちの感官に支配された心は、本来神性なるものを、これまでとかく曇らし或いは蔽うてきたものである。
あなたたちは時間も空間もない状態に到達し、自分の魂の中に宿り給うあなたたちの主なる神の完全さの中に入ることができる。
父なる神が個別化して各人一人々々となったのであり、(かくして一人々々が)久遠なる神の子すなわち神我の顕現として誕生し、地上に生を得ることになったのである。神我は肉の中に顕現した神の霊であり、昇天とはこの実在を真に認識すること、久遠の神我を真に把握することである。
神には善とか悪とかいうものはなく、神は今の今完全無欠に現れてい給う。神の愛があなたたちを通して現われるに任せよ。そうすれば、真実の表現を妨げるものは本来の無となって解消し去るであろう。恐れと悪とが造り出されているのは実は自分の心の中である。それは遍在している神の中には存在しないし、存在しえない。
闇は光の不在にすぎない。あなたたちの胸が愛によって満ちておれば魂の中には闇はありえない。真理は世の光を探求するものであり、愛こそが第一原因である。
神のみが実存し(すべては)神の自己実現であり、神によって創造された存在であるあなたたちは決して神から引き離されうるものではない。
愛は身体を貫流する生命エネルギーである。愛はすべての生ける魂の中にあって守護の働きをなすものである。
あなたたちにとって最も重大なことは、神おんみずからの真の現れである神の愛を受けかつ与える能力である。
神は積極的、創造的、かつ至純なる想念によって宇宙を創造り給うた。宇宙は神の本性たる『愛』の表現である。この神性エネルギー(愛)こそは、われわれを御自身に似せて創造り給うた神にわれわれを固く結びつける久遠の環である。こうして人類は愛の表現の器となる。
人はみな生れ乍らにして神の息子であり娘である。人はみな理解(さとり)と愛によって神の息子、娘となる。
理解(さとり)によって真理、すなわちわれらがみな神の息子、娘である真理が啓示される。
『光の書』(イエスからの伝言)よると、神の行為は光と共に始まります。高次元の光で始まります。天の光です。チャネルでつながる天の光です。
人は、輪廻転生を通じて、どうすれば、もがくことをやめて、人生の流れに身を任せることが出来るかを学びます。地上に転生する前、まだここ天にいる時、あなたは使命を与えられます。すべての魂は使命を持って地上にやって来ます。人生の目的は、自分の精神の活動範囲を見極める経験をすることです。
人は誰でも拒絶のカルマを持っています。拒絶は、輪廻の環の中でも最も一般的なカルマです。この世に生を受けている魂はすべて、このカルマを経験するために生まれて来ています。経験するだけではなく、できれば克服、解消するためにこの世にやって来ているのです。
あなたの本質とは、あなたの肉体に閉じ込められた光の存在です。本質とは最も純粋な自分であり、本来の自分です。自分の本質がいかに壮大であるか、そしてこのエネルギーがいかに神聖で唯一無二のものであるかを理解した時に、自分が光の存在であることを、何をするために地上にやって来たのかもわかるでしょう。
学ぼうとしていることが自分のエネルギーと調和している時にのみ、人はそれを学ぶことが出来ます。自分より高次のエネルギーを帯びたものを学ぶには、心を開き、自分のエネルギーをそのレベルまで高めなければなりません。人は、自分のエネルギーで吸収できるものしか理解できないからです。心を開け放ち、波動をより高次のものへと高めてください。
人はみな神です。なぜ、その事実から目をそむけようとするのですか。自分の中にある最高のものを引き出してください。あなたには本質があります。光があります。魂があります。それらに見合った波動を発すれば、あなたはいっそう明るい光を放ちます。
批判せず、決め付けず、天からの答え以外には何一つほしいと思わず、頭の中を無の状態に保つことができれば、あなたの質問に対する答えが現れ始めます。
『キリストのヨーガ』(ヒマラヤ聖者の教え)の「はしがき」からの一部抜粋より。
あらゆる欲望や探求は自我の延長にすぎず、真実なるものではない。
われわれが自分を喜ばせるものだけ、また自分が信じるていることや観念を満足させ、あるいは確認させるものだけに耳を傾けるならば、正覚はありえない。あらゆることに偏見を抱かずに、また自分の無知、自分の堅信、自分なりの知識、自分特有の個性、自分の見解を守るために防壁を築き上げることをせずに耳を傾けること、そして事柄の真理を見出す意図をもって耳を傾けることは一個の芸術である。
われわれを根本的に解脱させるのは真理のみであって、推論や空論ではなく、真実ならざるものを知覚することである。心を造り成しているものは真理ではない。真理は心を越えたものである。ゆえに、真理が啓示されるには、心は捏造をやめなければならない。
単なる観念は、神我の創造性に対する障害である。観念は、あらゆる洗脳するものによって取り囲まれた自我の投影にすぎない。
心が刺激やいわゆる霊感により、あるいは祈りや真言(マントラ)によって逃避しようとする限り、解脱に必須な心自身の成り行きを見極めることはできないのである。
自我を知ること(自我徹見)こそが唯一の道である。
真我実現に関して分かり易いのは、『覚醒の炎』で、もっと詳しく知りたい人は、『不滅の意識』をお勧めします。
『覚醒の炎』の表紙帯には、その強烈な臨在は、世界中の数知れない真理の探究者たちを真我に目覚めさせた。「考えているのは誰か?」と尋ねることは思考過程を止め、あなたの本来の自己、自然な状態、空なる純粋な源に戻る。これがあなたの本性なのだ、と書かれている。
『覚醒の炎』(ババジの教え)によると、「空」とは単に想念と欲望の不在にすぎない。
どのようにして心は分割されるのだろうか?想念を起こすことによってだ。一つの想いも起こさないとき、心自体が存在しない。想念が分離を生み出すのだ。分離がなく、心が分割されない状態、それがバクティ(愛)だ。それが至高の帰依というものだ。真我、不滅なるものに帰依心を抱き、それと一つになることが至高の帰依だ。
真我には二つの表現方法がある。愛(バクティ)と知識(ジュニャーナ)だ。それらは真我を発見するための二つの道とも言える。真我探求において、あなたの想念の源を探す。あなたは源に戻り、源に溶け入り、源にとどまる。これがヴィチャーラだ。この探求は「知識」、ジュニャーナと呼ばれる。帰依とはあなたの源を愛することだ。全身全霊で源に最高の愛を捧げるとき、あなたはその源に導かれてゆく。真の知識を得るためには、この源を一心不乱に愛さなければならない。至高の愛を得たとき、あなたは至高の知識を得るのだ。
自分が誰なのかを見出そうとする決意を抱いて努力する選択、それが真我探求の努力だ。それは「私は自分が誰なのかを見出す」という決断から湧き起こる。もう一つの方法は恩寵の道、明け渡しだ。「すべてはあなたの恩寵でしかありません。あなたの手の内にすべてをゆだねます」。この道、この態度があなたの面倒を見る力を誘い起こし、あなたを真我へと導くのだ。「私は自分自身で自由を勝ち取る」という決意も、「すべてを神聖なる真我の力に明け渡そう」という決意も、恩寵の現れに他ならないからだ。
ひとたびすべてはマーヤー(幻想)の罠だと知れば、それらが自分自身の想像の中にしか存在しないこともわかるだろう。とらわれていると信じていた罠から、あなたはいつでも自由に立ち去ることができる。仏陀は罠から立ち去って自由を見出した。すべてから立ち去るだけの勇気を彼はもっていたからだ。
ヨーギはさまざまな修練を通して目的地に到達し、至福の体験を得る。そしてその状態から出たときに、非常に自分に満足する。なぜならば、彼らは欲望の対象を獲得したからだ。彼らを幸せにさせたのは突然の欲望の不在である。欲望が完全に消え去ったとき、あなたはいつも幸福だ。これが解脱だ。解脱は瞑想や聖地を巡礼した結果ではない。
はじめの想念が消え失せてから次の想念が現れるまでに、そこにはギャップが、空間があるはずだ。この空間を見なさい。以前の想念は去った。それがどこへ行ったのか見なさい。その消滅を見極めなさい。そうすれば次の想念は現れないだろう。もし想念が来るなら、受け入れなさい。想念と想念の間の無想状態を見出すのだ。この無想は抑圧ではない。抑圧の方法に従えば、あなたは想念に押し殺される。想念が去り、次の想念が現れる前にギャップが存在する。それが真のあなたなのだ。それは抑圧ではない。それがあなた自身の真我に帰りつくことなのだ。
解脱した人は、「私がこれをすれば、これが起こるだろう」と考えて行為することはない。行為は起こるだろう。だが、行為をしているという感覚はそこにないのだ。彼は為されたことに特別な興味を示さない。そしてそれに対する執着もない。
その最初の「私」という想念が源に帰りついて消え去れば、それとともにすべてが消え去る。そのとき、あなたは真我として在る。「私」が消え去るその場所、それが智慧だ。そこは努力も想念も起こらない場所だ。すべて静かだ。その場所を去る時、「私」という想念が起こる。
最終解脱が起こった後で、いかにカルマが過去の活動や出来事と関連しているかを理解することもある。
実際どうなのか分からない部分もあるのですが、『バーソロミュー』によると、肉体を失うと、その人の叡知は「大いなる意識」(宇宙の集合意識)の大海原の中に常に存在し、過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しています。偉大なる真理や叡知は死滅することはありません。真理や叡知そのもののなかに勢いや速度というものがあり、「大いなる創造物」(宇宙のすべての現象)のなかを動きまわっています。
人はソウル・グループと呼べるものとともに地球界に転生(何度も転生を経験)してきます。肉体を持っていない魂の役目の一つは、肉体を持って転生した魂たちが真理に目覚めるよう導いたり、愛と心の支えを与えたりすることです。ソウル・グループのエネルギーは夢に現れて人々を導いたり、神からの啓示体験のようなヴィジョンを見せてくれたりします。
魂がこの地球にやって来て、肉体を身につけたとき、人間たちは「パワー」を与えあられました。七つのチャクラと関係したエネルギーでした。人々の「存在」のなかをたえまなく動いているパワーでした。人間の本来の性質、人間存在の本質は「大いなる源」の一部であり、それから創られました。瞑想している人は、自分の体のなかを流れ動くエネルギーをはっきりと感じ、そういうエネルギーは自分の肉体を超えたところから来ていることを知ります。意識を完全に研ぎ澄ましていると、パワーを急増させ、背骨の基部にあるチャクラから頂点のチャクラまでエネルギーを駆けのぼらせて、途中のチャクラにすべて点火する能力が自分の中にあることが分かります。パワーはあなたの内部にあって、人はそれぞれパワー制御装置のようなものを持っています。
あなた方が地球界にやって来たのは、あらゆる感情を経験し、これらの感情をマスターできるようになるためです。
神は一瞬も止まらずに動き、変化し、進化し、拡大しつづけ、ひとときも同じでない、すばらしい存在です。
地球界に形を持つものとして転生してきた目的の一つは、十二のパワー因子のそれぞれが二つに分離していることを理解することです。それらを再び統合し、調和とバランスをもたらすことがあなたの役目です。あなた方人間は、これらのすべてのパワー因子の源である「大いなる源」から生まれ、多彩な光として外界に出ていくことによって、創造されたのです。神なるエネルギーの波動のスピードを落とし、肉体という形をまとうことを選んだのです。肉体に「死」が訪れる時、パワー因子はそのまま生き続けますが、人はそのことを「魂が肉体を離れた」と表現します。
この地球界に転生してきた目的の一つは、ネガティブとホジティブの両極のバランスをとるということです。あなた方は、自分の覚醒をできるだけ促すような人生を計画して、転生してきています。
自分の人生に起こることは、何らかの意味と目的がある。あなたの人生に起こることはすべて、あなた自身の書いた設計図通りにちゃんと起こっているのです。この設計図は膨大な内容を持ち、変更可能であり、直接知ることができるという性質をもっています。
これまでより高い振動数のエネルギーを受け入れることができるように、肉体の中に新しい取り入れ口を築かなくてはならないのです。人間は神秘に満ちたすばらしパワー・センターであり、鋭敏な感覚を持ったエネルギーの発火点が体のいたるところにあります。この新しいエネルギーがやって来る時には、それがこれらの発火点にぶつかり、肉体を激しく揺さぶります。
アカシックレコードは、自分の恐れや悩みの原因となった、現世または過去世での重要な出来事を思い出すという形になって現れます。表層意識はその情報を「単なる想像にすぎない」と否定します。
人が真の神なるエネルギーに触れた場合は、パワーがドットとあふれてくることでわかります。このパワーは、人の存在のなかをめぐり、気分を高揚させるものです。「神なる源」とつながっている証です。
人間は、動くエネルギーの周波数帯でできています。その周波数帯の一つが「愛」と呼ばれているものです。人間は、「大いなる光」への道は、「大いなる愛」を通してであることを生れながらに知っています。
瞑想をして、肉体がしだいに静かになっていくにつれ、オーラの中に、違うタイプのエネルギーが入ってくるようになり、その人の肉体構造に作用し始め、様々な体験をするようになります。瞑想体験の一つはイメージを見ることです。
霊性の成長やエネルギーによってもたらされた気づきの状態は、超常体験をした後で、それを振り返り、その体験のさなかにエネルギーが増し、精神が高揚し、もっと真理を追究したいという興味と意欲が出てきたと思うなら、すべては正しい方向に向かっています。
聖霊とは、想像もつかないほどの巨大なエネルギー源で、人間のエネルギー域と繋がる電磁場をもっているものです。あなた方が肉体と呼ぶ物質機構の中には、細胞の中に電磁的磁石があり、私達は聖霊のパワーと呼ぶ電磁場と連結します。その接点は、自分の内奥に意識を向け、聖霊を感じることに責任を持つということです。
あなたが聖霊の持つ任務を果たすように願えば、あなたと聖霊との共同作業が一瞬にして可能になります。このエネルギーと繋がる方法を達成した人が目覚めた者と呼ばれます。
『バーソロミュー2』によると、人間の細胞の一つひとつに、すばらしい「神の本質」の一部が宿っています。そこで、この新しいエネルギーが人間の細胞組織に触れると、その中に潜んでいたこの「神の本質」が解き放たれます。瞑想をしている時は、細胞をリラックスさせて、古くて役に立たない考えやカビの生えた感情、空回りする思考や体の緊張を捨て去ることが大切です。
神とは圧倒的にすばらしい意識の感覚です。それは「すべてよし。今までも常に完璧であったし、これからも完璧でしかない」ということを、思考を超えた次元で知り、その境地に安心して憩うということです。
エネルギーを感じようとする意志が、悟りを開くことを可能にするのです。自分の体の中に完全に入るようにしてください。そこが神の住むところです。そうした真理で体のあらゆる細胞を活性化すればするほど、意識が真理とともに開花するのが早くなり、神は自分とは別のものだという幻想から解き放たれます。
今この瞬間に「神なるもの」は存在し、自分はその存在の一部である。神とあなたが一つであるならば、あなたは自分で直接交渉し、自ら神と一体化をはかることができるはずです。
あなたの中には、すばらし「キリスト性」とか「仏性」とか「神性」といわれるものがあって、それこそが無限なのです。その無限性を知る能力が、あなたにはあり、それを知ることが自分の人生の唯一の目的だと信じない限り、無限性の扉を開くのに必要なエネルギーを集めることはできないでしょう。
『バーソロミュー3』によると、考えと呼ばれるものが、生まれたり消えたりするのを眺めている「あなた」というエネルギーの場が存在することを認識してください。その「あなた」が「真我」または「真の自己」なのです。
人間が神と呼ぶ「大いなる光」は、広大無辺で、躍動するいのちに満ち溢れ、無条件の愛と無条件の慈悲を持つエネルギー源であり、あらゆるところに存在します。
外にある「大いなる光」と内にある「大いなる光」とは、まったく同じものです。この二つに分かれている神のエネルギーの場をを一つにするのだという意図を持って、何らかの瞑想をしてみてください。内なるパワーと外なるパワーの感覚がだんだんと実体を持つものになっていきます。
考えることをしないでただ体験している時、自分という存在の神秘とパワーとすばらしさを人は体験します。神は無条件にすばらしい感覚を与えてくれます。それが神かどうかを知る方法です。
「神を求める」努力をし続けるには、自分と神との間にはどんな分離も存在しないのだと確信したい、という飽くなき願いと強い意志と固い決意が必要です。
瞑想の時に広大な拡がりを見せるのは、不変の意識の中の「私」です。「大いなる光」を見ることができるのはこの「私」であり、「大いなる光」であるのもこの「私」です。それは目撃者であり観察者です。それは決して変わらぬものであり、すべてを眺めるものです。
魂の願いとは、人をもっと開かれた場所へ移そうとする神の声なのです。魂の願いがあるからこそ、自分の限界や疑問や人生の否定的な面などを超越することができるのです。
永遠に存在するエネルギーの波には、何十憶何百憶という点状の光源が含まれています。この波が「純粋な覚醒」の中を通っているのであって、「純粋な覚醒」は波ではありません。「純粋な目覚めた意識」が波なのです。「純粋な意識」には形がありません。それは「虚空」です。この「虚空」の真ん中にはすばらしい広大無辺の波があります。それは外へ拡がっており、この形のない「虚空」に支えられています。あなたもこの波の一部です。
神とは形のないものを人格化したものです。人格化された神にもエネルギーの波にも形がありますから、両方とも「純粋な目覚めた意識」だということになります。
爆発を通して、「純粋な覚醒」は自身を知るためのさまざまな方法を生み出しましたが、それと同じように、意識のそれぞれの断片が、今では自分自身の可能性を生み出し、自分の人生や現実を創造し、「自分とは何なのか」という自己感覚を生み出す能力を持っています。
二元性の世界を越えた、もっと大きなものを創造したいと願うならば、無限のエネルギーが存在する波動に自分を合わせる必要があります。
覚者というのは、最も深いレベルで、安心して自分の本質になりきっています。人はそれを「すべてを神にゆだねた状態」と表現します。それは捨てることの最終的な究極の姿です。
小さな自己から無限の自己(狭い自己の概念から解放された意識)へと飛躍する力を身につけると、多くの可能性が開けます。肉体をリラックスさせ、肉体そのものになると、変容の過程が加速されます。深い呼吸をし、肉体を感じてください。
あなたは数兆個の光とパワーの点から成る、脈動する電磁波のパターンの一つなのです。その脈動は、無限大に異なる運動を通して、他のすべての物質や創造界のパターンと繋がっており、そこには複雑で美しい(ネットワーク)が作られています。
人が肉体を離れる時に、脈動する光のように(見える)神々しいエネルギーの渦に出会うことがあります。そしてその光から溢れ出る愛と慈悲に圧倒されます。意識が肉体を離れて光体へと移り、人はそれを自分の外に出たと感じます。「自分」と「他者」が存在します。人が実際に「死んだ」時、つまり地球の肉体に戻らないという決断がなされた時、「その人」は「自分」のエネルギーをその存在のエネルギーのパターンと混ぜ合わせて、その光の一部となります。
生きたままでも人はこれを体験できます。想像できる最高の愛と慈悲を持ち、すべてを受け入れてくれる覚醒意識の電磁場と共に自分がいるところを想像することです。細胞の中で脈動を起こすのは覚醒意識です。覚醒意識は意識的に手に入れるものです。
瞑想する時、「あなた」のエネルギー場と「神」のエネルギー場とが一緒になって、一つのパターンを持つパワーとして脈動することが可能です。古いパターンは変化してしまい、もっと広大で深い波動を持つ、新しいパターンが代わりにできています。
「大いなるいのち(神)」は、肉体のあらゆる細胞の中に感じることができる脈動のパターンです。この脈動を感じたければ、意識を呼吸に向けるだけでいいのです。脈動を起こすのは呼吸です。脈動するパターンは、その体験に神秘と感動、そして目的と完全なる喜びを与えてくれます。脈動するパワーの無限の叡智が、人生のあらゆる瞬間を流れています。この電磁的な脈動にはいのちがあります。あらゆる瞬間に、それが自分の肉体や感情体や精神体を駆け巡るのを感じるようになります。それは、体が感じることのできる最強の感覚です。
「バーソロミュー」からの瞑想法によると、体に意識を向けたら、呼吸を観察する。呼吸をしながら、「いのち」が膨らんだり縮んだりしているのに注意を向ける。そうすると、意識は肉体の奥深くへ入って行きます。そこは、「神意識」の体験ができるところです。じっと待って、起こったことを感じ取るのです。
私の場合は、純粋な気持ちで体全体を覆った後、呼吸法を使ってチャクラを活性化し、内なる生命エネルギーを体の中を循環させることによって、ブロックを外して、体全体の波動を上げて行き、変性意識状態に入ると、光(性質の異なる様々な波動・エネルギー)を受け取れます。「神意識」の一部が浮上してくると、体全体が高波動に包まれ、時空を越えることもできます。
仏教徒もキリスト教徒も、たとえイエス様や仏陀様が来られて、直接教えを説かれても、彼らはそんな話は聞いたことがない、教わったものとは違うと言って、お二人だと気づかないのではないかと危惧しています。
追加(20年3月26日)
悟りを目指している人には、次の本がお勧めです。かなりの良書です(意識がシフトするかも)。
『"それ"は在る』(ナチュラルスピリット)
『禅 空を生きる』(太陽出版)
『あなたの世界の終わり』(ナチュラルスピリット)
ただ「在る」、そして「受け取る」、そして「在る」。そこには、自我(肉体から生じる思考)の入る隙間はありません。それが手放すという意味だと思います。
2019年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大乗仏教の座禅と上座部仏教の瞑想法の両方をマスターした山下良道師による仏教の瞑想法の本質が解説されている本です。
仏教には大乗仏教と上座部仏教の全く異なる二系統の仏教がありますが、その両方の瞑想法をマスターした山下師による解説なので歴史的にとても意義のある内容となっています。
とても読みやすく、また興味深い内容なのでアッという間に読み終わってしまいました。マインドフルネスは流行していますが今ひとつ掴み所がないと悩んでいる人も多いのが現状ではないかと思いますので、マインドフルネスの本質に迫る本書の内容は多くの人にとって役に立つものだと思います。
どことなく山下師にのかつて所属していた曹洞宗(そうとうしゅう)のお坊さん達に向けて書かれた本なのかなという印象があります。出来れば曹洞宗だけでなく幅広くより多くのお坊さん達に読んでもらって新たに議論をして欲しいと思います。
山下師の到達した一つの結論は、瞑想によって認識主体である自分と認識対象である自分との区別がなくなるというものです。このとき認識主体である自分がないのになぜ認識が可能なのか?という疑問が湧いてきます。それについて山下師は考え続けてきて一つの結論に辿り着いたわけです。
空の中に雲が浮かんでいるとして、空が雲を認識するのが通常の認識である、ところが雲がなくなる即ち自分がなくなると空としての自分が空としての自分を認識している状態になる、と山下師は言います。
この点についてはかつての兄弟弟子である藤田一照師との対談本「アップデートする仏教」の中でも語られていましたが、それについてさらに議論を深めてより詳しく論じているのが本書です。
これは極めて興味深いと思います。ただ真言宗の「梵我一如」や「真我」といった概念に近い印象を受けました。つまりどことなくヒンドゥー教の概念に近い印象を受けたんですね。考えようによってはバラモン教に先祖返りしたとも受け取れます。
またこれは非二元(ノンデュアリティ)の思想にも通じるものです。また西洋哲学でいうと近世のイギリス経験論のデイヴィッド・ヒュームの哲学に近い印象もあります。非二元(ノンデュアリティ)の思想においては「修行すら必要ない、既に目覚めている」という前提に立ちますから、この点は仏教やヒンドゥー教とも異なる立場だと考えられます。
また非二元(ノンデュアリティ)の思想においては「人生のストーリーは見せかけに過ぎない、なぜなら時間というものは幻想に過ぎない」と考えるようです。イギリス経験論のデイヴィッド・ヒュームは因果性を否定していますので、どこか近い印象を受けます。
山下師は先ほど紹介した「アップデートする仏教」なんかの中で非二元という言葉も使われているので、こうした点についても議論を深めて欲しいと思います。
山下師は一つの結論に辿り着いたわけですが、実はこれは新たな議論へのスタート地点に立ったとも言えるわけです。ゴールではなくスタートです。二系統の仏教を収めたことに満足することなく、さらなる深みへと議論を深めていただけるとありがたいです。
仏教には大乗仏教と上座部仏教の全く異なる二系統の仏教がありますが、その両方の瞑想法をマスターした山下師による解説なので歴史的にとても意義のある内容となっています。
とても読みやすく、また興味深い内容なのでアッという間に読み終わってしまいました。マインドフルネスは流行していますが今ひとつ掴み所がないと悩んでいる人も多いのが現状ではないかと思いますので、マインドフルネスの本質に迫る本書の内容は多くの人にとって役に立つものだと思います。
どことなく山下師にのかつて所属していた曹洞宗(そうとうしゅう)のお坊さん達に向けて書かれた本なのかなという印象があります。出来れば曹洞宗だけでなく幅広くより多くのお坊さん達に読んでもらって新たに議論をして欲しいと思います。
山下師の到達した一つの結論は、瞑想によって認識主体である自分と認識対象である自分との区別がなくなるというものです。このとき認識主体である自分がないのになぜ認識が可能なのか?という疑問が湧いてきます。それについて山下師は考え続けてきて一つの結論に辿り着いたわけです。
空の中に雲が浮かんでいるとして、空が雲を認識するのが通常の認識である、ところが雲がなくなる即ち自分がなくなると空としての自分が空としての自分を認識している状態になる、と山下師は言います。
この点についてはかつての兄弟弟子である藤田一照師との対談本「アップデートする仏教」の中でも語られていましたが、それについてさらに議論を深めてより詳しく論じているのが本書です。
これは極めて興味深いと思います。ただ真言宗の「梵我一如」や「真我」といった概念に近い印象を受けました。つまりどことなくヒンドゥー教の概念に近い印象を受けたんですね。考えようによってはバラモン教に先祖返りしたとも受け取れます。
またこれは非二元(ノンデュアリティ)の思想にも通じるものです。また西洋哲学でいうと近世のイギリス経験論のデイヴィッド・ヒュームの哲学に近い印象もあります。非二元(ノンデュアリティ)の思想においては「修行すら必要ない、既に目覚めている」という前提に立ちますから、この点は仏教やヒンドゥー教とも異なる立場だと考えられます。
また非二元(ノンデュアリティ)の思想においては「人生のストーリーは見せかけに過ぎない、なぜなら時間というものは幻想に過ぎない」と考えるようです。イギリス経験論のデイヴィッド・ヒュームは因果性を否定していますので、どこか近い印象を受けます。
山下師は先ほど紹介した「アップデートする仏教」なんかの中で非二元という言葉も使われているので、こうした点についても議論を深めて欲しいと思います。
山下師は一つの結論に辿り着いたわけですが、実はこれは新たな議論へのスタート地点に立ったとも言えるわけです。ゴールではなくスタートです。二系統の仏教を収めたことに満足することなく、さらなる深みへと議論を深めていただけるとありがたいです。
2022年3月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ミャンマーのマインドフルネスと仏教の禅。両方気になっていたのでとても興味深く読ませていただきました。すごく納得いく内容だったのですが、ただ1点だけ気になりました。輪廻転生の否定と浄土でみんなに会える的なことが最後の方に書かれていたのですが、そこだけまだ納得できていません。瞑想を繰り返せばそのうち納得がいくかもしれませんが。
2018年10月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日常的に苦を感じている。。なかなか逃れられない苦。どうしたら逃れられるのだろう。このまま一生苦しんで行かなければならないのか?何故生きている?何のために生きている?
そう感じていた私にとり、著者の主宰する一法庵の座禅会は、救済の場となりました。
苦から離れることが可能であると、それどころか自分は幸せになることができると、私は知ることができたのです。
魔法でも胡散臭い新興宗教を信じ込む訳でもなく、私達日本人の身体に染み込んでいる仏教が本来持っている救済の力を、この本は私達に発見させてくれます。
現代の仏教が充分に人を救う宗教としての役割を果たせないのは、何故であるのか。何がどうして欠落してしまったのか。
そして、南方仏教やアメリカから来たマインドフルネスとの運命的な邂逅による再生…。
この流れを、日本の仏教から飛び出しアメリカ・ミャンマー等で仏教を追求して来た著者が、力強くそして平易な言葉で分かりやすく読み解いて行きます。
葬式仏教と揶揄される日本仏教に諦めを感じている人、仏教お宅と言われるほど仏教知識に通じているのに苦しみから離れない人。
また、仏教とは全く無縁な苦しんでいる全ての人々に、是非手に取って頂きたい一冊です。
そう感じていた私にとり、著者の主宰する一法庵の座禅会は、救済の場となりました。
苦から離れることが可能であると、それどころか自分は幸せになることができると、私は知ることができたのです。
魔法でも胡散臭い新興宗教を信じ込む訳でもなく、私達日本人の身体に染み込んでいる仏教が本来持っている救済の力を、この本は私達に発見させてくれます。
現代の仏教が充分に人を救う宗教としての役割を果たせないのは、何故であるのか。何がどうして欠落してしまったのか。
そして、南方仏教やアメリカから来たマインドフルネスとの運命的な邂逅による再生…。
この流れを、日本の仏教から飛び出しアメリカ・ミャンマー等で仏教を追求して来た著者が、力強くそして平易な言葉で分かりやすく読み解いて行きます。
葬式仏教と揶揄される日本仏教に諦めを感じている人、仏教お宅と言われるほど仏教知識に通じているのに苦しみから離れない人。
また、仏教とは全く無縁な苦しんでいる全ての人々に、是非手に取って頂きたい一冊です。