芸術への「信仰」

「「芸術」否定の書」と背表紙に銘打たれた『芸術崇拝の思想  政教分離とヨーロッパの新しい神』(松宮秀治、2008、白水社)は、「芸術はいかにして<神>となったのか」を近代ヨーロッパの思想、文化などと絡めて論じた本。
国家権力から分離した宗教の穴を埋めるものとして、芸術が科学と同様に「市民宗教」の位置を占めていった経緯を明らかにし、近代以降の芸術崇拝がどのように定着していったかについて解き明かしている。
‥‥と紹介するとかなり学術的な内容に思えるが、文章は平明で読みやすい。終わりの方は「肥大化した「芸術」という観念」を批判する余りやや筆が走っている印象もあったけれども、西欧で不当なまでに高い価値を与えられた近代以降の芸術(美術、アートに置き換え可)のあり方を見直そうとする筆者の主張は明快。「芸術は良いものだ」という「信仰」から自由な観点で芸術について考えたい人におすすめ。

芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神

芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神


この中で芸術家は、前近代の芸術家と近代の芸術家とに分けて論じられている。芸術という独立したジャンルは近代の所産であり、その視点から前近代の芸術(と今日呼ばれるもの)を見ているに過ぎないということだ。
前近代では「芸術」「技術」「科学」は未分化のままであり、パトロンの存在やギルド制などによって芸術家の求めるものと社会の求めるものが一致しており、その意味において自律した「芸術」「芸術家」という概念はなかった。前近代の芸術家とは、迫真の技術でヴァーチャル・リアリティを実現しようとした「魔術家としての芸術家」だった。
18世紀末から19世紀初頭にかけて起こった「政教分離」の後、自律した芸術という概念、カテゴリーが宗教の占めていた支配的位置を占めるようになり、ミュージアムは教会に替わる新しい「神殿」となった。
こうした中で、「反権力」「反社会」を信条とする近代的な芸術家像が生まれてくる。


「芸術に殉ずれば殉ずるほど道化的存在にならざるを得ない」近代の芸術家像の典型として、芥川龍之介の『地獄編』で描かれた画家良秀が挙げられている。
良秀は屏風絵の完成のために、可愛がっていた一人娘が業火に焼かれて苦しむ様を、個人的な苦悩を乗り越えて描ききった。モデルにわざわざ良秀の娘を選んで画家を試したのは、堀川の大殿と呼ばれる屏風の依頼主である。
権力者の嫌がらせに屈して娘を助けてくれと赦しを請うことなく、己の芸術の完成を選んだ良秀は、「反権力」的で「反社会」的な芸術家像を見事に表している。
以下、近代の芸術家について述べられたところで、興味深い箇所を抜き出す。

 近代人はこのような芸術家に、実は大いなる敬意と愛着を抱くのである。作中での良秀はあらんかぎりの負の要素を背負わされているが、われわれは決して彼を嫌いもしなければ軽蔑もしない。むしろ逆である。われわれは彼のなかに真の「芸術家」を見出すのである。なぜなら俗世間、つまり社会に埋没して生きる市民は、市民社会のわずらわしいルールから超然と生きることのできる芸術家に自分たちの願望を投影して、芸術家が俗世から超然としていればいるほど、そこに一種の「聖性」を見出していくからである。市民社会とは俗世間の、つまり小市民の生活の総体のことであり、そこでは職場、近隣住民、友人、親族との諸関係が網の目のように入りみだれ、伝統、しきたり、ルールが複雑なからまりを見せるなかで、そのつどの「分限」に縛られた世界である。市民にとって芸術家がこのような約束事のルールから自由であればあるほど、「純粋」な存在に思われ、市民社会から逃れたいという願望の代償欲求となるからである。市民たちは芸術家の自由をうらやみながら自分たちが市民社会から逃れることができないこと、またその能力もなければ本当に逃れたいとは思っていないことを十分に承知しているのである。
(p.26〜27)

 芸術が自律すると、芸術の制作と評価基準が「創造性」「独創性」「個性」というものになる。ヨーロッパの伝統において「創造する」(create)という言葉は神のみの属性を表わす語であって、世界の聖なる創造ということを明確な背景として使われてきた。創造、想像的という概念が芸術家の営為に転化させられるまで、それは神のみがなしうる行為であって、人間の行為について使われるときは、クリエイトとかクリエイションなる語は「狂気のつくり出した幻」「熱にうなされた頭がつくり出す妄想」とほぼ同義のものを意味していた。
 [中略]
 芸術が宗教となり、芸術家が神の位置に昇りつめたとき、神の栄光をわがものにするのは良いが、神ならぬ人間が神の振舞いをみずからの役割として演じていくのは、間違いなく荷が重すぎることであろう。近代で芸術家がそれが本物で、真摯な芸術家であればあるほど、狂気を演じ続けるか、あるいはみずから狂気に陥るか、または道化師を演じ、トリックスターを演じ、無頼の徒を演じ、さらには自殺し、自己破壊の道を選んだりするのは、神を演ずる重荷を軽減させようとする必然の選択であるといえるかもしれない。
(p.64〜65)


この芸術家像は少し古臭いのではないか、と受取る人はいるだろう。筆者も、最近は芸術の分野でよりも、教育とファッションの分野で「創造性」とか「個性」といった言葉がよく聞かれると述べている。
また最後に、現代の芸術家はこうした「自己自身の存在を「作品化」する方向を拒否しだした」、それは「授賞制度や栄典顕彰制度がほぼ社会的に完備され、死を賭してまでの存在の作品化が無用になったからである」と辛辣に書いている。


しかし世間では、近代に確立したアウトサイダーにしてトリックスター的な芸術家像が、今だに人気がある。その一例が、前の記事でも触れたバンクシーと言えるかもしれない。
ユリイカ8月号の特集『バンクシーとは誰か?』の中の、『新たな価値の創出 バンクシーと美術館』と題したテキストで、美術批評家の暮沢剛巳はポール・ヴィリリオの「蒸気船や帆船を発明するとは難破を発明することであり、列車を発明するとは鉄道の脱線事故を発明することである。自家用車を発明するとは高速道路での玉突き事故を生産することなのである」(『アクシデント 事故と文明』)という文章を引いたあとに、次のように述べている。

[…]この特異な論理を美術館という制度全般にあてはめるなら、「美術館を発明するとはコレクションの盗難事故を発明することなのである」とでも翻案することができるだろう。[中略] してみると、美術館に自分の作品を仕掛けて回るバンクシーの挑発行為は、従来とは逆ベクトルの事故の発明に他ならない。この特集タイトルよろしく「バンクシーは誰か?」と問われたら、私とて「芸術テロリスト」と答えることにやぶさかではない。ただしそれは既存の秩序を破壊した云々ということではなく、彼が新たな事故を発明したと考えるからだ。新たな事故=新たな価値を創出したという一点において、バンクシーはまぎれもなく美術の定義の拡張に成功したのである。
(p.86)


ここで言祝がれているのは、基本的には100年前と変わらぬ近代的な芸術家像である。近代以降の芸術は、批判や逸脱やありとあらゆる”冒険”を取り込み、それらを芸術の「新たな価値」として登録し、自らの概念と領域を無限に更新、拡張していく機構だからだ。
だが、芸術、美術の定義が書き換えられ拡張していくことが良いことだとして、何故良いのか?誰にとってどう良いのか?(業界で食べる人にとっては飯のタネが尽きないわけだから良いことだろう‥‥というのは別として)という問いは、ここには書かれていない。「美術の定義の拡張」=良いこと、はわざわざ問うまでもない前提となっているように見える。
これも芸術への「信仰」の一種かもしれない。