副題は「「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史」。「演歌」という「伝統的」と思われているジャンルが、1960年代に成立し、そして70年代から80年代にかけて「日本の心」となっていった過程を丁寧に論じた本。
 新書の枠をはみ出すようなページ数(350ページ超)と情報量で、読みやすい本とは言えないのですが、たんに「演歌」だけにとどまらず、日本の大衆文化と政治性を深く出した本です。

 「演歌」の語源は、自由民権運動の時に歌われた「演説の歌」であり、明治・大正と「演歌」は脈々とその歴史をつないできた、という演歌の「伝統性」はちょっと調べれば怪しいものだとわかります。
 「演歌の女王・美空ひばり」のデビューは「ブギの女王・笠置シズ子」のモノマネでしたし、「演歌の王道」のように思われる古賀政男のメロディも戦前期は「ラテン風」、「南欧風」と言われていました。また、藤山一郎、淡谷のり子といった歌手たちは、いずれも音楽学校で西洋的な歌唱法を身につけた歌手であり、いわゆる「コブシ」や「唸り」といった演歌の歌唱法とは一線を画しています。

 「演歌」は歴史の中で綿々と受け継がれてきたのではなく、ある時点でさまざまな歌が「演歌/艶歌」としてカテゴライズされ、そして「伝統的」、「日本的」とされたのです。

 作曲家・船村徹と作詞家・高野公男のコンビがつくりあげた「都会調」に対する「田舎調」の楽曲群。畠山みどりがパロディ的に持ち込んだ「浪曲」の意匠。「下積み」や「流し」のイメージを売り物にした、こまどり姉妹や北島三郎。洋風ブルースで夜の盛り場を歌った青江三奈や森進一。戦後民主主義批判の中で見出された日本の土着的、あるいは夜の盛り場の歌。それを言説化してみせた五木寛之。その五木寛之のイメージする「艶歌」を体現してみせた藤圭子。「艶歌」の「艶」の字が常用漢字でなかった頃から入り交じる「演歌」と「艶歌」。
 挙げていけばキリがないのですが、これらの様々な要素と状況が重なって、「演歌」というカテゴリーが誕生します。

 正直、あまりにも多くの要素がありすぎて、もうちょっとすっきりとした見取り図は描けなかったのか?とも思いますが、このあまりにも雑多な要素から見えてくる政治性というのも面白い。


やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正の下層プロレタリアート」であり、それゆえに、見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能になった、ということです(290p)

 これは藤圭子の登場によって「エンカ」という言葉が流行語になった現象を説明したあとに置かれた文章ですが、ここからは日本の「労働者階級」の弱さ、「反近代」という立ち位置を共有する右翼と左翼の同根性など、さまざまなことが連想できます。
 
 さらに、「演歌=韓国起源説」を否定したあとで引用されている平岡正明の北島三郎についての「おねがいだから、在日朝鮮人であってほしい」との発言。知識人のある種のマイノリティーへの歪んだ入れ込みが戦後の大衆文化を駆動してきたこともうかがえます。

 この他にも小柳ルミ子などによって「風俗」的なイメージが脱色された演歌とそれにのっかったNHK、「歌謡曲」というジャンルの消長など興味深い部分も多いです。
 もう少し整理されていたほうがよかったのでしょうが、演歌に興味がなくても、戦後の大衆文化、そして文化と政治の問題に興味がある人はぜひ読むべき本だと思います。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)
輪島 裕介
4334035906