『舞姫』 論争 (1) 


 森鴎外の 『舞姫』が明治23年1月3日に発表されて一カ月後、石橋忍月の「舞姫」と題する批評が発表された。その二カ月後、鴎外の反論が発表され、短期間であるが激しい論争が交わされた。論争は内容が具体的に展開されることなく終わったが、明治二十年代にふさわしい時代的な論争であった。
 論争はそれぞれ鴎外と忍月の全集に収められており、まとまった形で読むことができる。しかし、鴎外の作品批評の中でも『舞姫』論は膨大な量に上り、目録を読むだけで気力が失せてしまう。ところが、さいわい嘉部嘉隆氏の「森鴎外--初期文芸評論の論理と方法--」(桜楓社刊 昭和55年)という著書がある。この著書は、知人に偶然借りたもので嘉部氏が国文学の世界でどのような位置にあるのか、この著書がどのような評価を受けているのかを知らないし、他の著作と比較したわけではないが、良心的に、客観的に、一言一句もおろそかにしない学者らしい綿密さで百五十頁にもわたって論争を検討している。しかもそれまでの論争についてのあらゆる見解を総括的に研究した成果であることがわかる。
 嘉部氏は、詳細な検討の結果、「たとえば整然たる論理と言われていた鴎外の論が、意外に非論理的で強引な方法をとっていたり、逆に忍月にむしろ論理として肯定できる面が見られたことを指摘できた」(180頁)、としている。嘉部氏の詳細な説明は説得力を持っている。論争が作品内容についての十分な展開のないままに忍月の方から打ち切る形で終わったこともあって、鴎外を高く評価し、忍月が敗退したと評価している批評家もいるが、そのレベルの批評を問題にする必要はないと思われる。無論ここで、嘉部氏の著作を再確認したり追認することを目的としているのではなく、嘉部氏のこの著作を到達点として、この到達点を批判的に克服することを課題にしている。鴎外に批判的な結果となっているこの著作を批判的に検討すれば、鴎外に対する肯定的評価も一層深く批判されることになる。嘉部氏の実証的な方法では届かない内容もあるのでそういう側面を中心に気のつくことを書いてみようと思う。

 嘉部氏の著作の他、臼井吉見氏の「近代文学論争」(筑摩叢書、1975年刊)と長谷川泉氏の「森鴎外論考」(長谷川泉著作撰集 1 明治書院 平成3年刊)、「鴎外の顕匿」(長谷川泉著作撰集 2 所収)を参照した。臼井氏の著作は概観を与えたもので、長谷川氏の著作は、特に鴎外の私生活と作品の成立について実証的に詳しく研究している。
 嘉部氏の著作の昭和55年以降に詳しいまとまった成果があるかもしれない。ネット上で、少しづつ書いていくという性質上、その都度参考にして書いていくこともできるので、教えていただければ幸いである。

 まず忍月の意見は嘉部氏の手短なまとめによると次のようになる。(鴎外、忍月のそれぞれの意見は、長谷川泉氏の「鴎外の顕匿」に簡潔にまとめられており、嘉部氏もそれを採用している)

 (一)主人公太田豊太郎は功名を捨てて恋愛をとるべきである。
 (二)人物の説明に矛盾がある。
 (三)叙述に不用の部分がある。
 (四)表題が不適当である。
 (五)「屋上の禽」という語は無理の熟語である。
                       (嘉部氏、83頁)
 忍月の批評は作品の第一印象をそのまま書いたもので複雑な問題がいろいろと絡まって含まれている。鴎外はこの批評に対して鴎外らしいやり方で内容を六つに分けて反論している。嘉部氏にならって、鴎外の分け方と鴎外が論じた順番によってこの論争を検討していこう。
 鴎外は忍月の批評とは逆の順番で反論している。これについて嘉部氏は、鴎外が自分の論争を有利に進めるための方法として瑣末な問題から入り、最も重要な「功名と愛の葛藤」の問題を避けようとしてそれに成功したと書いている。このような理解は、「功名と愛の葛藤」の問題が鴎外にとっては触れたくない、不利な問題であるというこれまでの多くの批評の先入観を嘉部氏も共有しているために生じたものであるが、それは前提とされているので、「功名と愛の葛藤」の問題がなぜ鴎外に不利なのかには触れていない。後に述べるが、鴎外にとって「功名と愛の葛藤」は決して不利な問題ではなく、むしろ作品の主要な葛藤として論じたい問題であった。ただ、現在のわれわれから見ると実際に瑣末な問題から入っており、それが鴎外の博識を利用する機会をあたえ、さらにそれが「舞姫」の作品そのものから問題をそらす役目を果たすことで、忍月を論争から追い出した役目も果たしている。
 鴎外が論争方法として姑息な手段に訴えており、論争に正面から立ち向かっていないように見えるのは、鴎外が論争に勝つために工夫した手段ではない。鴎外にとってはこの順番が作品の内容にそくした論理的な順番であった。忍月が順番を問題にせずに論争に応じたのはこれらすべてを主題の問題と切り離して考えていなかったために、どれから始めても同じことだったからであろう。鴎外は何か別の内容を理解した上で、論争に勝つためにそれを避けたり隠しているのではなく、鴎外にとってはこれが内容であり、論争の方法は鴎外の思想の必然性である。それは意図でもあるが、鴎外にとってはそれしかない意図である。嘉部氏のいう鴎外の「論理と方法」は、論争の背後にある鴎外の意志、意図を明らかにする事、つまり論争に隠された鴎外の主観のあり方、論争のやり方を明らかにする事である。これは批判として不十分である。すれ違いの指摘自体は詳細で綿密で正当であるが、それを鴎外の意志とすることが結論になっており、厳しく言えば、すれ違いの内容に入っていない。その意志、意図の思想的必然性、いわば意志の客観性を明らかにすることが、「論理と方法」を明らかにすることである。

 嘉部氏が鴎外がとった順番をこのように否定的に評価するのは嘉部氏の現実感覚が忍月の立場により近いからである。重要度の程度は忍月の批評では忍月の主張の順番であるが、舞姫の作品に即していえば作者鴎外が採用した順番に一致している。順番がこのように対立するのは、鴎外と忍月では作品のとらえ方、特に豊太郎の評価がまったく違うからである。
 鴎外が論点をはぐらかしているように見えるのは、両者が作品の理解において基本的に対立しており、しかもお互いに対立の具体的内容を理解できずに、細部の点でもまったく論争がかみ合っていないことによる。鴎外が忍月の主張の内容をまったく理解できないままに、持ち前の几帳面さとしつこさで次々に忍月にとってはわけのわからない、あるいは手に負えない問題を突きつけてくるために、忍月はどうにも処理することができず、遂には必要すら感じなくなって投げ出してしまった。忍月の主張には特有の説得力があるが、その視点から鴎外の主張を批判的に具体的に理解する事はできなかった。両者にとって自分がなにを問題にしているのかはっきりしない結果に終わったであろう。ただし、その後この論争で何が問題になっているかを結局誰も理解できなかったのであるから、両者の能力が劣っていたとは言えないのである。

 鴎外はまず忍月の次の文章をとりあげて反論している。
 予は客冬「舞姫」と云へる表題を新聞の廣告に見て思へらく、是れ引手数多の女俳優(例へばもしや艸紙の雲野通路の如き)ならんと。然るに今本篇に接すれば其所謂舞姫は文盲癡ガイにして識見なき志操なき一婦人にてありし。是れ失望の第一なり(失望するは失望者の無理か?)。而して本篇の主とする所は太田の懺悔に在りて、舞姫は実に此懺悔によりて生じたる陪賓なり。然るに本篇題して舞姫と云ふ。豈に不穏當の表題にあらずや。
 鴎外はこの文章を引用したあと、つぎのように続けている。
 「足下は陪賓を以て小説の題号に充つべからずとなしたり。知らず此法則は何人かこれを建て何人かこれを守りたるを。…(実例をあげて)…凡小説の題は詩の題と何ぞ擇ばむ。篇中の物一として取りて題とすべからざるものなし。一木一石の微も亦可なり。何ぞ況や人物をや。何ぞ況や陪賓をや。唯之を擇ぶに巧拙あるは、趣を解すると否とのためなるのみ。獨、足下は陪賓を以て題となすに足らずとしたり。其妄一つ。」
 鴎外は忍月のこれだけの文章をてがかりに、「小説の題号」についての一般論を長々と論じている。小説の題について一般的規則をたてることができないことは誰にでも分かる。忍月は小説の題についての一般論を論じているわけではなく、鴎外が一人で論じているだけであるから、論争として扱う必要はない。嘉部氏は、この部分について、臼井氏の文章を引用して次のように書いている。
 臼井吉見氏は、表題が適当でないという意見について「これについて鴎外は多くの引例によって躍起になって反駁しているが、論ずるまでもない問題であるから今は問わないことにする」と書いている。しかし論争方法という観点からすれば、必ずしも「論ずるまでもない」とは言えないかと思われる。 (嘉部氏 90頁)
 臼井氏の評価も嘉部氏の評価も正しいと思われるが、論ずるまでもない点と、論争方法を別にして、作品の内容にかかわる問題が多少残っていると思われるので、忍月の主張に則して、作品にかかわる部分をとりだしてみよう。
 忍月が「舞姫」という題を問題にするのは、忍月が考えるこの作品の主題とさらにそれと関連して、エリスの描き方の理解にかかわっている。そのように論じている。
 「而して本篇の主とする所は太田の懺悔に在りて、舞姫は実に此懺悔によりて生じたる陪賓なり。然るに本篇題して舞姫と云ふ。豈に不穏當の表題にあらずや。」
 この作品の主題は大田の懺悔であるとする点では、鴎外も一致している。しかし、その懺悔の内容の理解が違うために、エリスの位置づけが違っている。忍月にはこの作品が豊太郎の葛藤だけを問題にしており、エリスを問題にしていないように見える。エリスの個性や苦悩など問題にされておらず、エリスを棄てた豊太郎の懺悔が問題であるように見える。だから、エリスは陪賓であり題として不穏当と考える。忍月にはエリスが「文盲癡ガイにして識見なき志操なき一婦人」と映っていることにこうした読み方が現れている。しかし、鴎外にとってはエリスは陪賓であっても、そのような位置を占めるのではない。
 「ハルムが作の主人公がリイゼを殺して金を得、自ら其罪を悔てやすき心もなく、遂には闇窖中に死するなども同じくリイゼを軸としたり。太田豊太郎の舞姫に於けるも亦然り。此主人公が行爲の中心は終始舞姫なりしにあらずや。」  (鴎外 再び気取半之丞に與ふる書)
 これは、忍月の主張を、題を主人公にすべきだと無理に解釈した上での反論に、ついでのように出てくる文章である。鴎外にとってエリスは、豊太郎の位置づけにとって重用であった。エリス自身は重要な位置を占めていないが、豊太郎にとってエリスとの関係がもっとも重要な位置をしめている。鴎外にとって「主人公が行爲の中心は終始舞姫」である。言い換えれば、忍月にとっては豊太郎の懺悔はエリスを棄てた結果として生ずるのであるが、鴎外にとってはエリスを「棄てた」ことになっていない。すくなくとも、豊太郎の精神において--豊太郎にとっても鴎外にとっても多くの批評にとってもこれが重用である--実践的には棄てたとしても、棄てる気はなかったし、たとえ別れたとしても精神的にはいまでも分離されたとは言えず、苦悩として豊太郎の精神に維持されていることが重用である。だから、「舞姫」がこの作品の題として適切であると内容上から確信を持っていたであろうし、鴎外にとってはエリスとの関係をどのように描写するかが実際に重要な問題であった。

 忍月はまずエリスの評価を与え、エリスが題となるほどの女性として描かれていないのに、題とするのは不適当だと主張した。こうした批判にはむしろ忍月がこの作品を客観的なものとして高く評価しようとしている態度が伺われる。しかし、鴎外にとっては、エリスを優れた女性としてはむろんのこと、一個の個性として描く必要などもともとないし描く能力もなかったが、豊太郎を描くに当たって、もっとも重要なことはエリスとの関係をどのように描き、理解するかであった。忍月が感じとったのは、鴎外の主な関心が豊太郎の懺悔にあり、エリスを描くことではないということであった。それは正当な感受性である。しかし、作品を客観的に理解しようとするこのような関心においては、作品において豊太郎とエリスとの関係をどのように描くかという鴎外の関心を理解することはできなくなる。だから、忍月の指摘と鴎外の指摘には一致点もあり、違いは微妙なすれ違いに見える。
 鴎外がまず題が不適当という主張を第一妄として反論したことには、作品に対する基本的な理解の違いがある。それはエリスを客観的な個性として描いているかどうかである。だから、この問題はエリスの描写内容の問題でもあり、鴎外はこれについて、第二妄として反論した。忍月にとってはエリス自身の描き方が問題であり、鴎外にとっては豊太郎にとってエリスとの関係がもっとも重要であるという意味で重要であった。だから忍月に個性として描かれていないと思われるエリスは、それを否定することなく、そのままで鴎外にとっては重要な意義を持つことになるのである。

 第二妄の反論の結論部分は次の文章である。
  「既にして舞姫の出づるや、足下が其引手あまたならざるを見て失望したるも亦咎むるに足らず。而れども是れ足下が心中の魂胆のみ。鴎外漁史も太田生も与り知る所にあらず。鴎外漁史は縦令舞姫の題を出だしたりとて、引手あまたの女優の伝を公にすべき責任なければなり。足下これを以て命題者を責めむと欲す。其妄二つ。」
 これは反論ではなく中傷である。常識的に考えても、文章からしても、題が気に入らないから題を変えるべきだとか、題に合わせて人物を描写すべきだなどと忍月は主張していないし、するはずもない。しかし、鴎外はこの非常識な考え方を忍月におしつけている。さらに、「再び気取半之丞に與ふる書」では、忍月が作家にたいして描く内容を指図しているかのような印像をつくり出そうとしている。批評家としてもっとも嫌うであろうレッテルをはろうとしている。「再び気取半之丞に與ふる書」は論争のためについ書き過ぎたとかの偶然ではなく、無意味な文章をしつこくながながと繰り返しており、質、量ともに論争に対する真摯さを疑わせるに十分である。冷静に考えれば、鴎外は思想全体においてこうした傾向をもっており--それは作品にもあらわれている--悪意と見えるのは思想の傾向の一部分であって、思想と悪意の間に境界線をひくことはできないと考える事ができる。しかし、それは百年も後の今になって言える事で、当事者である忍月としては冷静でいられなかっただろう。
 鴎外は冷静沈着だったと思われる。鴎外は小説の題についての形式的な一般論を展開して、あたかもそこから導き出したかのような形式で忍月を非難している。形式論議として鴎外の頭の中では整合性があっただろう。しかし、それは忍月の主張とはまったく関係がなく、忍月との関係でみるときは全体としてひねくれているのである。
 鴎外の反論は無意味なので問題にしない。忍月が問題にしているにもかかわらず、鴎外が問題にしなかったことを問題にしよう。

 ここで忍月が問題にしているのはエリスの像である。
 第一妄で指摘された、エリスが陪賓であるにもかかわらず題になっていることは、エリスが豊太郎の精神にとって決定的な意義を持っていることで説明できる。しかし、豊太郎にとってエリスが重用であるとする事と、実際に豊太郎にとってエリスが重用である事は別であるし、この作品では対立している。この作品では豊太郎にとってエリスがどのような意味で重要であったかがもっとも大きな問題である。エリスは個性として独立的な個性的な精神を持つことも、豊太郎にとってそれ自体として重要な意義を持つこともない。端的に言えば、豊太郎がエリスを重視しているそのしかたは客観的に見れば、エリスの個性や価値はどうでもいいし、豊太郎にとって重要である必要もまったくないし、実際に重用ではありえない。しかし、それ自体として重要でない女性であるからこそ、その女性との関係をどのように解釈しどのように対処するかが重要な問題になっているのである。

 「舞姫」という題は、豊太郎にとってエリスとの関係をどのように処理すべきかが主な関心であることからすれば、適切な題である。しかし、忍月がそうであったように、エリス自体が重要な意義をもっているとか、エリス自身が独立的な個性として描かれるべきである(忍月の場合のように)と考える場合は、不穏当な題ではないかという感想を持つ事になる。問題は豊太郎にとってエリスが重要な意義をもっているのはどのような意味においてであるかである。
 忍月は、「『舞姫』の意匠は恋愛と功名の両立せざる人生の境遇」だと考えている。描かれた人間関係で言えば、エリスの愛をとるか天方伯の信頼をとるかである。そうなると、エリスが「文盲癡ガイにして識見なき志操なき一婦人」であれば(忍月にはそう見える)不自然である。エリスと天方の選択において豊太郎が葛藤するのであれば、「識見なく、志操なき」エリス像は不穏当である。彼女は貧しく、地位もないから、絶大な地位を持ち、豊太郎に出世を保証しうる大臣に対抗できるだけの個性、精神的な魅力がなくてはならない。またそうした精神的価値において豊太郎がエリスを愛していなければならない。何ら個性がなく、ただ哀れむべき状態にある少女が、同情をひくだけの愛によって出世の路から、天方伯から豊太郎を引き離す力があるとは思えない。豊太郎に即して言えば、単なる同情心が天方伯の信頼より優位になるとはことはないと思われる。エリスのような不幸な人間はいくらでもいる。豊太郎はその一般的な人生や運命に対して関心をもち、その精神的価値においてエリスを愛しているわけではない。豊太郎とエリスの関係は、同情の延長上にある偶然的感情による結びつきである。それは、相沢の言葉ではっきり読者に知らされている。
 「彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性により生じたる交なり。意を決して絶てと。是れその言のおほむねなりき。」
 相沢のこの言葉はエリスの、又エリスと豊太郎の関係の描写から見て説得力を持っており、豊太郎の内心の言葉でもある。豊太郎はこの言葉に対立する意識を持たない。「その言のおほむねなりき」とは、相沢の言葉の要点を理解しうまくまとめていると言える。豊太郎がエリスと別れるのは、エリスが豊太郎にとって価値を持たないからであるし、実際それだからこそ、別れるに当たってそれなりの苦労をしなければならないのである。
 忍月が見たエリスは、天方伯に対抗できるどころか、出世を望む人間にとって遊びの相手でしかないような、出世にあたって切り捨てる事が当然であるような、哀れんでやっただけ幸福であるような、相沢がいう通りの「舞姫」像である。この印象は正しい。だから「本篇の主とする所は太田の懺悔に在りて」と考えている忍月が「舞姫」の題が不自然だと感じたのは当然であった。しかし、それは忍月の先入観である。作品はあるようにあるのだし、あるものとして理解しなければならない。忍月はこのエリス像を不自然だとせず、それをそのままに作品の特徴として認め、それが何を意味するかを明らかにすべきであった。豊太郎は忍月が想定した恋愛か功名かといった葛藤を持たないこと、エリスは切り捨てやすく、切り捨てるべき女性として描かれていることを作品の特徴として明らかにすべきであった。つまりもともと天方伯の信頼と拮抗するような愛情をもった二人の個性が、偶然の事情とか外的事情によって切り裂かれるといった葛藤や苦悩などどこにもないことを明らかにすべきであった。
 ところが忍月には、それができなかった。できない理由がある。忍月のエリスについての理解が正しいとすれば、豊太郎がエリスを選ぶことなどありえず、したがって忍月の想定した葛藤などありえなくなる。ところが、ここで順番が問題になる。忍月はエリスの描写の矛盾を指摘する前に豊太郎の性格を分析している。豊太郎の性格を見れば、豊太郎が天方伯を選ぶ、というより天方伯が豊太郎を選ぶのは不自然であると忍月には思われる。忍月にとってはこの不自然には疑問の余地がない。その結果として豊太郎はエリスを選ぶのが作品として自然な流れだということになる。そうなると、エリスが「文盲癡ガイにして識見なき志操なき一婦人」であることの方が不自然になり、ましてそれを題にするなどまったく不穏当に見える。忍月にとっては、豊太郎が天方伯を選択する事、換言すれば天方伯が豊太郎を出世の路に引き上げる事はまるで理解できないことであった。天方伯が豊太郎を選ぶことの方が、豊太郎が「文盲癡ガイにして識見なき志操なき一婦人」であるエリスを選択するよりはるかに不自然であった。忍月はそうした豊太郎の性格について指摘したあとにエリスの問題を論じているのである。
 忍月の現実感覚からすれば、この作品は具体的に考察し始めると矛盾にみちた、理解できない作品である。豊太郎もエリスも矛盾を含んでいるし、豊太郎の像からするとエリス像が不自然になり、エリス像からすると豊太郎像が不自然になる。忍月はこれらの矛盾を、描写の不自然として指摘した。忍月のこの指摘は実は非常に現実的な、その後の歴史では失われた感受性を示している。忍月は直感的にこの作品の本質的特徴を矛盾としてとらえた。忍月の課題はこの矛盾するかに見える現象が、内面深くで統一された、日本史にうまれた新しい精神の一つであることを理解することであった。この矛盾において作品は全体として統一されている。忍月は作品の特徴を基本的に正しく捉えながら、その細部に理解が及ばず、自分の第一印象を維持し発展させる事ができなかった。そのためにあたかも鴎外が論争で勝利したかのような結果に終わってしまった。

 忍月の眼には矛盾だらけに見えたこの作品は、鴎外にとっては細部にわたってなんの不自然も矛盾もなかった。『舞姫』は鴎外の自然的な感情を吐露し対象化した作品であるから、鴎外の精神に特有の自然的な統一性があった。
 忍月はエリスが「文盲癡ガイにして識見なき志操なき一婦人」であることにことに失望した。そして、「失望するは失望者の無理か?」と書いた。忍月にはどうしてもエリス像が理解できないが、作者に対してないものねだりをするわけにもいかない、と付け足している。それにもかかわらず、鴎外はこの失望をことさらにとりあげて、忍月が望む人物を書くわけに行かないという形で反論した。しかし、エリスが「文盲癡ガイにして識見なき志操なき一婦人」であるという指摘にはまったく反論していないし言及していない。鴎外は忍月の指摘を前提にして、そういう女性を描いてはいけないのか、と反論している。鴎外のひねくれた反論が思想の内容によるものであることがよくわかる。鴎外はエリスをこのような女性として描きながら、なお「舞姫」という題をつけているために忍月には不自然に感じられたのであるが、鴎外には自然であった。
 鴎外がエリス像が否定的な印象で読まれることを問題にしない理由は、「舞姫に就きて気取半之丞に與ふる書」の最後で「太田生は眞の愛を知らず。然れども猶眞に愛すべき人に逢はむ日には眞に之を愛すべき人物なり。」と書いていることにはっきり表れている。鴎外にとっては、忍月のエリスに対する否定的評価は歓迎すべきものであっただろう。豊太郎がエリスを捨てて天方伯を選ぶことが、豊太郎の精神に否定的痕跡を残さない自然的な過程にすることが鴎外の課題だったからである。ところがエリスが価値のない女性であるほど、豊太郎が関係を持ったことが、また天方伯や相沢との関係の間で葛藤していることが不自然になる、というのが、忍月の感じている矛盾であり、実際にこの矛盾の正体を明らかにすることがこの作品を理解する鍵である。

 現在ではエリスに対する忍月の単純で否定的な評価を不思議に思う読者が多いだろう。鴎外はエリスを決して否定的な個性として描いていないし豊太郎も否定的な感情をまったく持っていない。だから忍月のようにこの作品にはっきりと矛盾を感じ取るには独自の精神、価値観が必要である。このような理解は忍月がこの作品に「愛と功名」の葛藤という社会的テーマを求めていることによる。豊太郎が天方伯と対抗しうる女性に愛情を注き、苦しんでエリスを捨て天方伯を選んだというテーマを描こうとしているという先入観が忍月にはある。しかし、作品のどこを探しても、豊太郎がエリスを選ぶべきか天方伯をえらぶべきか、とかえらぶべきであったとかいう葛藤は描かれていない。自分の特殊な、しかし現実認識として陥りがちな問題意識から作品を読んだ忍月は、豊太郎のこの本質的な特徴を認識できなかった。豊太郎が貧しいエリスと生活し、子供ができたにもかかわらず天方伯について帰東するという実践的な過程をみて、ここに深刻な選択があり、その選択において葛藤があると思い込むのが常識的な感覚である。彼は明治人らしく、出世する人物に対して積極的精神を求める。だから忍月は、出世主義敵に積極的な精神を持たない豊太郎にとって、エリスは捨てがたい女性であると思い込んだ。だから忍月にとっては、豊太郎がエリスを捨てて出世を選択したことが不自然だと感じるのである。しかし、鴎外のこの作品における基本的関心はエリスを捨てたという豊太郎の意志を否定することにある。そんな意志はどこにも描かれていない。豊太郎は実践的には、エリスを棄てて天方伯を選択した。しかし、それにもかかわらず天方伯に信頼されて出世の道を進んだことは自分の意志による選択ではなかった、つまりエリスを捨てる意志はなかったし、裏切らなかったとすることがこの作品の肝心な内容であり、鴎外の主な関心である。
 豊太郎を肯定的に描こうとしている鴎外にとって、忍月がエリスを否定的に評価したことが歓迎すべきことであったとしても、それは明確にすべきことでもなかった。鴎外にとってはエリスを否定的に描くことにも、豊太郎との関係上矛盾が生じる。だから、非個性的に、良くもなく悪くもなく、ただ淡い印象の美しい少女としてのみ描き、美しく肯定的に描いたままに否定されていくことが、豊太郎に汚点を残さないための最善の方法であったし、またそのようにしか描けなかった。したがって、忍月が出世主義的な積極性を持たないと感じる豊太郎を、その消極性において肯定する価値観をもっている鴎外にとっては、客観的にはエリスがまったく取るに足りない女性として描かれているにもかかわらず、豊太郎のそうした性格との関係において、美しく可憐で魅力的な女性として描いていると思い込んでいるのである。忍月にとっては、また客観的には豊太郎は消極的であり出世の能力を持たないように見えるしエリスは非個性的で取るに足りない女性に見えるが、鴎外にとってはまったく逆に豊太郎は積極的で有能で人格的な人物であり、エリスは美しく可憐で魅力的であるように見える。しかも、鴎外にとってそのような印象は豊太郎が天方伯を選択しエリスが精神的に破滅することとも何ら矛盾しない。そのような運命全体が美しくロマンチックなのである。

 鴎外の価値観ではエリートである豊太郎が貧しいエリスが極端に困った状況にあるときに、条件をだすことも下心を持つこともなく援助を与えることが美しい人格だと思われる。忍月の指摘するとおり、豊太郎は慈悲心を持っている。鴎外はこの慈悲心を精神的な価値として高く評価している。つまり、豊太郎のほどこす慈悲が相手にとって正史を分けるほどに重要であると描くことが、またそれによって救われることが美しい人間関係だと思われる。忍月には、こういう慈悲心によって美しく描かれている豊太郎は、国家的な使命や課題を持つ人物ではなく、天方伯に重用されることはないと考え、それにしてはエリスに対して残酷にすぎると考える。しかしこうした慈悲心は残酷さと矛盾しない。鴎外も豊太郎も慈悲を施すことが相手を尊重することだと考えているが、実際は慈悲を与える自分を尊重しており、エリスは慈悲を与える、救われるべき対象にすぎない。
 貧しいエリスに多少の金を与えることが鴎外の想定しうる善意、善良さである。それはごくわずかの額であるし、彼等にとって何ら犠牲も労力も必要としない行為であるし、実際に大したことではない。その金が生きるうえで大変役に立ったとしてもである。鴎外は豊太郎のごく瑣末な行為を高く評価するために、エリスにとってその援助がいかに重要であるかを問題にする。そのために慈悲の対象は極端な窮地にあり、しかも、そのわずかの援助で決定的に助かるような状況が想定される。客観的な行為の質は大きくないが、それを大きく見積もるために対象を低く評価することで自分を高く評価する必然があり、それが彼等の思想を客観的には残酷にすることになる。
 エリスは豊太郎の好意に全霊をあげて感謝し豊太郎を全面的に信頼し依存する女性として描かれている。慈悲を肯定する場合はエリスのこうした特徴も美しく可憐に感じられる。エリスの感謝の念は豊太郎の慈悲の価値を高める関係にあるから、エリスが豊太郎の価値を高く評価するほど全的な感謝と依存性が高まり、独立的な価値を失う。エリスが貧しくとるに足りない女性であるほど、豊太郎の善意は価値を持つことになる。豊太郎は何の下心もなく、見返りを期待するでもなく、ただ純粋な気持ちから援助したのであるから、対価を期待できないまったく無力な女性である事は豊太郎の善意の純粋さの証であるし、そのように描かれている。エリスは豊太郎の善良さを際立たせる人物として描かれることにおいて否定的である。豊太郎が慈悲において肯定的に描かれているのだから、エリスが天方伯と対抗するような独立的で個性的な女性として描かれることはない。だから、慈悲心が厚いにもかかわらず残酷であるという忍月の指摘は、指摘自身が矛盾している。慈悲心とエリスに対する残酷さは矛盾しない。しかし、豊太郎的に慈悲心にあついことは天方伯に信頼されることとは矛盾する。
 鴎外はエリスを否定的に描いているという認識を持たない。こういう人間関係に無批判的である。鴎外は豊太郎の善良さを肯定している。この特殊な善良さがエリスに対して、あるいは人間関係一般に対して否定的であることをまったく理解できない。鴎外にも、鴎外を肯定する批評家にも、豊太郎の善意は立派であるし、その善意を受け入れ、信頼し、感謝するエリスも立派であるし、その全体が肯定的な人間関係だと思っている。貧しい少女に小金を与える事が、人生をかけた全面的な信頼や感謝に値すると考える俗物の感覚からすると、これが高度の人間関係に見え、エリスも美しく、豊太郎も高度の精神を持った人物に見える。豊太郎に都合のいい個性が豊太郎の立場からは美として肯定される。この作品は、豊太郎がエリスを残して帰東する途上で、エリスの悲劇をロマンチックな感傷として日記に書きつづる形式になっている。豊太郎の感傷には、ただ依存的に豊太郎を愛し、自己を主張することもなく、具体的意志も決して持たない淡い存在として、捨て去られるべき、また捨て去られたものとしてのみ記憶に残り、書きつづられている。忍月にとってはこのような関係にある豊太郎もエリスも不健全な人間であった。
 貧しい生活に耐えている人々にはこうした依存的な関係を厭う自尊心が形成されることを鴎外は知らない。これについての初歩的な認識を漱石は「野分」に描いている。貧しい生活に生れる自尊心についての意識をまるで持たない鴎外が高度の精神の描写に到達することはできないし、それにまったく気づきもしないこの作品が高度な内容を持つこともありえない。エリート官僚の甘い、気持ちの悪い感傷、不健全な精神はエリスを犠牲にし、軽蔑していることを肯定することだと思うところにある。

 豊太郎には、国家的課題に対する積極的な意識はない。この点について忍月は敏感であった。出世に対立する世界に住むエリスへの愛は、エリスの精神を理解した深い感情ではなく、単なる哀れみであり同情である。つまりその世界との分離を前提した感情である。豊太郎は天方伯ともエリスとも分離され孤立した独自の精神世界にいる。だから忍月が感じたように天方伯との関係においてもエリスの関係においても現実的な感覚においては矛盾している。エリスは豊太郎が積極的な意志をもつことなく、自然に出世コースに流れていくことと矛盾しないような、破滅の道に自然に流れるような個性、あるいは無個性として、つまりは破滅において出世する豊太郎を肯定する女性として描写されているのであって、天方伯と対立した貧しい世界の個性として描かれているのではない。
 鴎外や批評がエリスを高く評価しているとしても、客観的には、つまりその評価の内容においてエリスは肯定されていない。精神の評価は立場によって違っている。豊太郎の善意に全面的に依存するエリスを美しく見る立場は豊太郎をも肯定的に評価し、豊太郎の観点から女性を眺め、豊太郎と同じ女性観、人間観を形成する。だからエリスの描き方の具体的内容は豊太郎を分析することによってより明確になる。
 鴎外は、エリスに対する否定的評価には関心を示さなかった。しかし、豊太郎に対してはそうではない。其妄二つのあと、すぐに「足下の太田生が性質を説き玉ぶ段に至りては則ち更にこれより甚しきものあり」と、強く反発している。

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